【街景寸考】働くということ

 Date:2019年05月01日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 働くことの意義をあらためて考えてみた。自分や家族の生活を支えるための手段であり、社会とのつながりを通して自分の存在価値を見出していくことだと言える。更に、働くことで仕事の能力だけでなく、社会人としての資質も磨くことができる。能力や資質を磨くことができれば、仕事人として社会人として自分に自信が持てるようになり、生きがいを感じ、幸福感を得ることができる。
  
 ところが、現代において生きがいをもって働いている労働者が、どれほどいるのか疑問に思う。賃金が低いため生活が苦しいという労働者もいれば、長時間労働を続けながら身体を酷使し続ける労働者もいる。日常的にセクハラ・パワハラ被害を受け、精神的に疲弊しきっている労働者もいる。更に、将来不安を抱えながら働く非正規労働者も急増している。なぜこれほどまでに日本の労働環境は悪化してきたのだろうか。

 30年ほど前、IT音痴のわたしの机の上にもパソコンが置かれ、大いに戸惑ったことがあった。不器用ながらそれなりに扱い続けていると、確かに仕事の処理が速くなり、その便利さが分かるようになった。多くの職場でも、これらの機器の導入により業務全体に余裕が生まれ、それまでのぎすぎすした人間関係も緩和され、長時間労働も確実に減っていくであろうという期待を持ったはずである。

 しかし、その期待は大きくはずれたように思う。多くの企業は、こうした業務の効率化、合理化により生じた時間を待っていたかのように、業務を更に拡大してきた。このため労働環境は改善されるどころか、悪化の一途を辿るようになった。長時間労働は非情なまでに増え、過労死や過労自殺、うつ病になる労働者も各段に増えた。中小零細業者の事案も含めると、テレビ報道で扱われてきた事件は氷山の一角に過ぎないはずである。

 問題は長時間労働のことだけではない。非正規と正規の賃金格差の問題もあり、外国人労働者との待遇格差の問題もある。今年4月1日から改正された働き方改革法が順次適用されることになった。思うに、どれだけ労働現場で改善されるのかは疑わしい。 

 特に長時間労働に関しては、全体の業務量を減らしていかない限り改善はありえないと思われる。表向きに改善したように見せかけることができても、結局そのしわ寄せは誰かが引き受けざるを得ないのが実際であろう。残業時間に関しては国会で大いに議論されていたようだが、業務量との兼ね合いに関しては何の議論もしていなかったように思う。

 いつのころから日本の労働者は、経済の奴隷のような働き方をするようになってきたのだろうか。元来、経済は人間が人間らしく暮らして行くための手段だったはずだ。政府や経営者は、労働者に人間らしい暮らしができる労働環境を整えていく責任がある。働き方改革よりも、まず国民経済を基本とする経済のあり方から改革すべきではないのか。