【街景寸考】「おまけの人生」のこと

 Date:2020年11月11日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 気がついたら古希を迎えていたという感じである。還暦を過ぎてからもずっと50歳代の気分でいたからかもしれない。しかし、さすがに古希を迎えてからはそういう気分が段々薄れてきた。むしろ、自分の残りの人生のことを意識するようになった。同時に、自分の人生をよく回顧するようになってきた。

 小学生の頃は悪ガキだったにもかかわらず病弱な体質だったので、よく学校を休み、早引けをして病院に通っていた。小学6年生くらいまでは「自分はあまり長生きすることができないのかもしれない」と本気で思っていたことがあった。母もときどきわたしの顔を覗き込むようにしては、「いつも青い顔をしてからに・・」と眉を寄せて呟いていた。

 ところが中学生になってから段々元気を取り戻し、高校入学後は病気知らずの体質へと変わっていったのである。野球部に入って厳しい練習に耐えていたら、いつの間にか頑強な身体になっていた。野球部に入ったことを母には内緒にしていたが、直ぐに知られることになった。健康体になっていく様子が母にも見て取れたからだと思う。

 野球以外でも土・日は卓球や鉄棒をやり、クラスマッチや体育祭があるたびにバスケットやバレーボール、陸上にも熱中し、わたしは高校生の標準を超える身体能力や運動能力をおのずと身に着けることができたのだった。実際、高校2年生のとき、数種類の競技をして身体能力を測るバッジテストで最高得点を取った。

 高校生のときに一度だけ病院に行ったことがあった。様々なスポーツをしていたら腿が太くなり過ぎて両腿が擦れてインキンタムシができ、痒くてならなくなったからだ。余談だが、このとき患部が股間だったことから、わたしはこの病院でかつてないほどの恥ずかしい思いをするはめになった。

 診察台の上で所在なさげにしているわたしに医師が、仰向けになってパンツを下げ、両足を開脚したまま両膝を立てるように促したのである。そばには医師だけならまだしも若い看護婦さんが2人いたので、わたしはうろたえて股間のものを反射的に両手で覆っていた。赤外線による治療だった。わたしがマッチョな美少年だったこともあり、このときの屈辱感や恥ずかしさは50数年経った今でも忘れることができないでいる。

 話が逸れた。そういうことで、完璧に近い健康体になっていたわたしは、「これなら少なくとも60歳までは生きていける」という自信を持つに至ったのだった。

 その60歳を迎えた辺りでわたしは、突然心筋梗塞を患った。1週間ほど入院した程度の心筋梗塞だったが、担当医の所見から自分の身体が老化、劣化の域に入っていることを思い知ったのだった。ところが同時に、このときのわたしは「目標だった60年を生きたのだから、以降の寿命はおまけみたいなものだ」と思うこともできた。

 おまけの人生だと思うようになって、死への恐怖が薄れてきた。健康に感謝しながら楽な気分で過ごせるようにもなった。もちろんこの健康は、丈夫な体に生んでくれた亡き母や健康を保ってくれたカミさん、そしていつも笑みをもたらす家族のお陰である。