【街景寸考】「空気を読む」のこと

 Date:2017年10月25日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 空気を読めない人は、同僚などから煙たがられたりする。仕事に関係した場面で空気を読めずに配慮できなかったときは、「空気ぐらい読めよ」と上司から怒鳴られることもある。「空気を読む」とは、その場にいる人たちの心情を察するというような意味になる。

 空気を読むことができないのは、この「察する」能力に乏しいからなのかもしれない。例えば、ある話題で場が盛り上がっているところで、見当違いの話題を突如持ち出して周りを白けさせてしまうというのが典型例だ。結婚披露宴で祝辞に立った上司が、長々と自社の宣伝をして参列者を退屈させるのも同じ類だ。

 こういう性格は無神経なタイプに多い。無神経とは、恥や外聞、他人の気持ちなどを気にしないことである。自分本位の考え方しかできないため、自分の言動で周りが嫌な思いをしているのに、そのことに気がつかないタイプでもある。こういうタイプに限って、自分の評価については神経質になるようだ。

 一方、人に好かれる無神経さもある。いわゆる天然ボケと言われる人たちだ。このタイプは、やはり「空気を読む」ことが苦手であり、見当違いな言動をするが、なぜか嫌われない。思ったことを人前で口にしても憎めず、周囲に気を配ったりはしないが、嫌われない。

 同じ無神経でも、嫌われるタイプもいれば、好かれるタイプもいるということだ。両者をどういう体系で振り分けられるのかは解らないが、はっきり言えるのは、天然ボケは誰に対しても笑顔で応対し、楽観的なタイプが多いように思う。

 以前、「最低でも県外」と公言した後で日本中を呆れさせたのは、鳩山元総理である。当時、この鳩山氏のことを誰かが川柳で「鶴は千年、亀は万年、鳩は天年(然)」と揶揄していた記憶がある。この発言は政治家としては決して許されないことであったが、天然ゆえに同氏を憎めないところがあったのは確かだ。

 ともあれ、「空気を読む」ことぐらいはできる人間でなければならない。その上で、主体性を持って場の空気に合わせるなり、その空気を割いて独自の言動をするなりをすべきであろう。その場の空気とは異なる言動を行うことで、ネガティブな空気感がポジティブになることがあるかもしれない。危険な空気感が平和な空気感に変化することもある。

 いずれにせよ、空気に流されることだけは、あってはならない。