【街景寸考】早クソのこと

 Date:2018年08月22日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 前回、「早メシ」のことを書いたが、今回は「早クソ」のことについて書こう。

 早クソは早メシと並んで「時間を惜しんで働くのが男の美徳」とされた昭和の時代によく使われた言葉だ。もっとも「早メシ、早クソ、早支度は武士のたしなみ」という諺もあったので、遡れば「早クソ」は江戸時代、否、それ以前から使われていたのかもしれない。

 しかし、考えてみれば「早メシ」と「早クソ」を同列におくことに違和感がある。早支度も早メシもその気になりさえすれば対応は自在だが、「早クソ」はそうはいかない。強くいきんでも出てこない場合が多々あるからだ。特に便秘ぎみだったりすると、肛門近くに硬くて手ごわくなった便が詰まっているので、これを出すだけでも相当時間がかかる。
 
 下痢気味のときでも「早クソ」は難しい。ひととおり便を出したつもりになっても、便意が収まりそうにないことが多いからだ。潔く尻を拭くことで便意が遠のいてくれるのではないかと期待しても、その直後にまた便意を催してしまう。尻を拭いては立ち、立っては座り直すといった具合が続く。

 もっとも、近年は「早メシ、早クソ」という言葉はほとんど使われなくなった。働き方に対する価値観の変化によるものかもしれない。あるいは、男の美徳そのものに対する世間の見方が変化してきたせいかもしれない。「クソ」という汚い言葉が、今の人たちに敬遠されてきたということも考えられる。

 このことと関係しているのかどうかわからないが、近年はむしろトイレに長居をする人たちのことが耳に入ってくるようになった。トイレの中で新聞や書物を読んでいるとか、スマホゲームをしている人たちのことだ。トイレのついでに居座ったまま夢想をする哲人タイプもいる。中には、すでに大半の便が外に出ているはずなのに、僅かながら直腸に残っていそうな便まで出さないと気が済まないタイプもいる。

 ともあれ、トイレに長居をするには和式便座では難しい。洋式便座の普及があってこその長居である。痔に悩まされていた学生時代、和式便座で排便するたびに相当の覚悟を要していた。その頃住んでいたアパートが洋式便座だったらと、今でも思うことがある。

 その痔から解放されて久しい現在、下痢の場合は別として、まだ奥の方に便が残っているかもしれないと思っても、わたしの場合は次の分に回すようにしている。従って、悠長に新聞を読む時間もなければ、夢想できるような時間もない。

 強いて言うなら、こうした排便法を「早クソ」だと言えなくもない。