【街景寸考】才人のこと凡人のこと

 Date:2019年01月23日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 一流の芸術家や学者、アスリート等の道を極めてきた才人たちは、凡人とは異なる能力を持っているように思う。その能力とは、道を極めて行くために必要となる「こだわり抜く」という能力だ。「こだわり抜く」とは、少しの妥協も許さずに目指す道を進もうとする強い意志と、その意志を長く保ち続ける能力(持続力)のことだ。

 もちろん、これらの能力をいかんなく発揮するためには、それらが大好きな道であるということは言うまでもない。好きな道だからこそ、その道を極めて行く過程がどんなに厳しくても耐えられるというものだ。否、耐えるというよりも、むしろ修練の日々の充実感を楽しんでいるのではないかと想像する。

 かつてわたしも極めてみたい道があった。臆せずに言うとミュージカル歌手であり、弁護士、機械体操の選手であり、野球選手、学校の先生などである。しかし、実のところ単にそういう職業に憧れただけで、人並みの努力をすることもなく入口付近で尻尾を巻いてきた。典型的な「飽きやすの好きやす」の性分であり、面倒くさがりの性分だった。加えて、極めるべく必要な厳しい修練を想像しただけで、気後れをする性分でもあった。

 それでも、ときには自分にこう囁く別の自分がいた。「どれひとつ物にできなかったのは、それらが本当には自分の好きな道ではなかったからではないのか。本当に好きな道に出会えたならきっと極めることができるはずだ」と。こういう調子で将来の自分に期待をしながら生きてきたわたしだったが、あっという間に人生の晩年期を迎えていた。

 何ひとつ物にできなかったという劣等意識を持ち続けてきたが、還暦を過ぎた頃から開き直るようになった。「まあまあの人生だった」と思うようになった。凡人として平凡に生きてくることができたことに、感謝できるようになった。特に家族への感謝である。そう思えるようになったのは、平凡に生きて行くということも簡単なことではないと気づかされたからでもあった。

 同時に、才人たちに対する羨望の念とは別に、彼らの人生に多少懐疑的な目を持つようにもなった。まだ小さな子どもだというのに、何かに秀でているというだけで本人の意志とは無関係にそれが既定路線のように決められることに対する懐疑心だ。こうした話を見聞きするたびに、彼ら(彼女ら)にも他に相応しい生き方があったのではないかと気の毒に思うようにもなった。

 ときどき思うことがある。才人と凡人の違いは、能力ではなく性質の違いなのではないかと。もしそうだとすれば社会的な評価は別として、個々のレベルで言えば才人も凡人もない。どちらが幸せかという問いかけも意味がない。そして、幸せには大きいも小さいもない。