【街景寸考】「人生、まあまあでいい」

 Date:2024年05月07日14時52分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 まだ若かった頃、「生きて行くことの意味は何だろう」と自問することがあった。生きて行く意味が分かれば、迷わずに自分の人生を生きて行くことができるように思ったからだ。何かの本の影響を受けてのことだった。

 ところが、普段の生活を淡々と繰り返している中で、わざわざ立ち止って人生の意味を考える気にはなれなかった。そうかといって、何かに悩んでいるときではなく、不安な思いをしているときでもなかった。むしろ、ボーッとした気分で散歩をしたり、トイレで用を足していたりするときにもたげてきた。

 そんなときにもたげてきていたので、ただ頭の中であれこれと言葉遊びをしている程度でしか考えることはできなかった。その意味らしき言葉に遭遇することはあっても、日常の生活にかまけて忘れてしまうか、重荷を感じて投げ出してしまうかのいずれかであり、やる気や情熱のようなものを自身に感じることはなかった。

 それでもどういうわけか、いつも影のようにしつこくわたしに付きまとうように問いかけてきた。ときには、喉の奥に微かに刺さっている小骨のような不快感さえ覚えることもあった。

 ところが、古希に近づいてきた頃から考えは変わってきた。生きて行くことの意味を考えるは哲学的で難しく、わたしには手に負えない領域だという思いがあったが、その一方で人生に意味があろうとなかろうと大した問題ではないと思えるようにもなった。そう思えるようになったのは、多分に齢のせいである。齢のせいで開き直ることができた。

 この開き直りにより、自分は自分の意志とは関係なく生まれてきたのだから「生きて行くことの意味は何だろう」という自問が愚問に思え、「自分はどう生きるか」を考えることに意義があるのだと思えた。これなら、自分が挑戦してみたいことや、好きなことを探せばよいことなので、何も難しく考える必要はない。

 もっとも、晩年を迎えているわたしには、「自分はどう生きるか」という自問を背負い込むには重く、そして遅すぎた。一方で、これまでの人生を場当たり的に過ごしてきたという後悔を引きずっていたわたしは、残りの人生くらいは「どう生きるか」という問いに対して自分なりの面目を保てる言葉を持っておきたいという思いがあった。

 そんなわけで、これまでの人生を「まあまあだった」と思うことにし、今後の人生を「まあまあでいい」と思うことにしたのである。根拠はない。

 ただし、未来という財産を持つ若い人には「まあまあの人生でよい」と言うのは憚られる。やはり「自分の好きなことや挑戦してみたいことを、存分にやってほしい」と言ってやりたい。希望を叶えることができなくても、その努力の過程で培われた知恵、教養、人間力、行動力を活かすことができるので、いくらでもその後の道を切り拓くことができる。

 「まあまあの人生でよい」と自分自身に言い聞かせるのは、まだずっと齢を取った後からでいい。