【四字熟語の処世術】一以貫之(いちいかんし)

 Date:2017年12月25日09時48分 
 Category:文学・語学 
 SubCategory:四字熟語の処世術 
 Area:指定なし 
 Writer:遠道重任


 100キロのバーベルを軽々と持ち上げることができる怪力でも、針一本を指に乗せてずっと持ち続けることは、なかなかできることではありませんね…。

 先生が良く話しをされていたのを思い出す。瞬発的な力は出せてもその力を維持することは難しい。飽きっぽい性格だとなおさらである。なかなか一つのことをやり遂げることができない。多くが三日とは言わないまでも、長続きはしない。少々続いたとしても50歩100歩である。

 私は我慢強い方だが、今回だけは我慢できない…怒りを露わにする人に多い言い訳である。結局、少しも我慢強いことはなく、いつも切れている人でしかない。真に我慢強い人は、いかに理不尽な場面におかれても我慢し続ける人なのだ。

 一以貫之(いちいかんし・いちもってこれをつらぬく)…論語にある言葉だ。孔子様が弟子達に語られた言葉の一節である。「吾が道は一以て之を貫く」と言われ、これを聞いた弟子の一人が兄弟子に尋ねたそうである。「先生の一とは何ですか。」と。兄弟子は答えて、「忠恕」であると教えたという。

 孔子様は生涯、「忠恕」の心を持ち続けて人々に接し、教えを説き続けその人生を締めくくられた。「忠」とは「中」の「心」で何事にも偏ることなく、常に天に向かって真っ直ぐな天心である。思い邪(よこしま)のない心、良心を保って何事にも対峙されたのだろう。「恕」とは「心の如し」である。自分の心を推し量って相手の心に寄り添う、まさに「おもいやり」の心だ。

 「恕」については、こんなエピソードも論語にはある。

 あるとき、弟子の一人が孔子様に尋ねたそうだ。「生涯を通して踏み行うべき道を一言で表すとしたらどんな言葉になりますか」と。孔子様はこれに、「それ恕か…」と答え、続けて「己の欲せざる所人に施すこと勿れ」と言われたそうだ。

 「恕」とは自分が嫌なことは人にもしないこと、自分の心のごとく人にも接することだ。その思いやりの心こそが、もっとも大切な事だと教えられた。聖書にはイエス様が弟子に「汝の欲するところを人に施せ」と教えられているが、表現の違いだけで思いは一緒である。

 忠恕の心は人としての当たり前の心だが、当たり前を当たり前に行うことほど難しい事はない。誰もが良心という光を持っている。その光で自分の心を照らし、歩むべき道を照らしていれば、迷うことなく真っ直ぐに歩けるのだ。

 難しいのは良心を曇らせてしまう自身の弱さだろう。時に人は眩い光から目をそらしてしまうことがある。正しい道を歩むには、強い心が必要なのだ。

 孔子様は天を尊ばれた。そして、天より頂いた中なる心、良心に従い、思いやりの心で周りに自身の光を注ぎ続けられた。孔子様が生涯貫かれたのは、この中なる心、良心を曇らせまいと自分自身の心と戦い続けられたことだったのではないだろうか。一時の間ではなく、生涯を通して不断の努力を重ねられたのだ。

 自身の心に打ち克って、当たり前のことを当たり前に行うことができる人になること。暮れゆく年の瀬に、新年への思いをこの四字熟語に託したいと思う。