【街景寸考】中国教育界の変化

 Date:2019年03月27日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 先日、中国の教育問題を取り上げたテレビを見た。これまでの応試教育の反省から、新教育へ舵を切った小学校の現場にスポットをあてたものだった。応試教育とは日本で言うところの受験教育のことであり、新教育とは子どもの資質や人間性、道徳を優先する教育のことである。

 中国で応試教育が見直されるようになってきたのは、厳しい受験教育により子どもたちだけでなく社会にも様々な弊害が生じてきたからだ。弊害というのは、いじめの横行など子どもたちの心が歪(いびつ)になってきたことや、拝金主義や利己主義が露骨にまかり通る社会になってきたことなどだ。

 こうした弊害は、日本においてもある。と言うより日本の方が先輩格だ。今もその体質は変わってはいない。すなわち、社会人として成功するためには一流大学に合格することであり、そのためには高校も進学校でなければならない。当然ながら小中学生のときから塾通いをするなど、勉強漬けの毎日を続けていかなければならない。本来ならそういう子どものあり方を阻まなければならない親が、学歴偏重教育の共犯となってけしかけている。

 中国でもこの学歴偏重社会の影で心がすさんでいじめに走ったり、心が委縮して閉じこもったりする子どもが増えてきた。子ども同士が外で遊ばなくなったため、友情を育んだり、共に心を寄せ合ったり、他人の心の痛みを感じることもできなくなってきた。自分さえ良ければよいという利己的、自己中心的な子どもが増えてきた。日本と同じではないか。

 番組では、毎日早朝から4時間ほど少林寺拳法を取り入れて心身の鍛錬を優先する小学校と、儒教の教えが書かれた経典を徹底的に朗読させるという小学校を紹介していた。両校とも子どもの心を豊かにする情操教育に比重を置き、道徳的価値を帯びた感情や意志の育成を目標にしているようだった。

 受験教育が行き過ぎれば、子どもの心が壊れていくのは当然である。わたしの場合、小中高時代はほとんど勉強らしい勉強をせず、成績は半端なく悪かったが幸いにもなぜか劣等意識を持つことはなかった。だから受験教育の弊害をまったく受けずに済んできた。

 勉強をしなかったのは、ただ嫌いだっただけである。受験教育への反骨精神を貫いてきたわけではもちろんない。わたしの子どもたちにも、人間性を密かに期待しながら放任に近い自由を与えてきた。このことが良かったとは思ってはいないが、少なくとも人間的魅力という点では今や父親のわたしを超えている。特に誠実さという面でははるかに超えている。カミさんの影響が大きかったとしか言いようがない。

 日本も中国の教育界のように、人間教育へと大きく舵を切っていかなければ未来はない。