【街景寸考】セクハラのこと

 Date:2018年05月02日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 財務省事務次官のセクハラ問題で、連日騒がしい。これだけ騒がれていれば、わたしも含め世のおやじたちは、セクハラにならないよう普段より自分の言動に神経を使わらざるを得なくなる。その結果、セクハラに対しての意識も少しは高くなるはずだ。

 とは言っても、喉元過ぎてメディアが他のネタに目を向けるようになれば、再び元の意識に戻ってしまう気がしてならない。せめて「三歩進んで二歩下がる」くらい前進することができればと思うのだが、日本のおやじ連中には期待できそうにない。

 まだセクハラという言葉がなかった昭和30年代、祖母は7歳のわたしを連れて森繁久彌主演の映画を観に行ったことがあった。映画の題名も、筋立ても、映像の記憶もないが、60年近く経った今でも頭から消えないワンシーンがあった。

 そのシーンとは、森繁久彌が酒の席で仲居役の尻をなでるところである。尻をなでられた瞬間、その仲居役は「キャッ」と短く叫んで足早に通り過ぎて行くのだが、その不快な反射的行動とは違い、愛嬌を添えるような表情をしていたのである。

 まだ子どもだったわたしではあるが、このシーンに強い違和感を覚えたことを記憶している。不快なことをされたのに、なぜ仲居役は不快感を表さなかったのかと。後年、このときの仲居役の対応が、客に対する受忍ぎりぎりの扱い方だったということを知る。あの場面で迷惑顔をすれば、酔っぱらいは逆切れをして客扱いの悪さをなじったに違いない。

 上司のセクハラに対して抗議も迷惑顔さえもできず、ただ笑って自分の心情を隠し通すしかない現代の女性職員の立場も、この仲居役の場合と基本的に同じである。上司に迷惑顔をすれば、職場内での居心地は悪くなり、不当に差別されたという話は山ほどある。

 セクハラは男女の差別意識や強者・弱者の差別意識が根っこにある。スケベ根性も底辺にある。教養を身につけ、差別がいけないことだと認識できても、「種の保存」という本能がある限り、スケベ根性の方はなくならない。今度の財務省事務次官の例でも明らかだ。

 だが、こうした差別意識もスケベ根性も、思いやりと賢さを具えれば、他人に嫌な思いをさせたり、辛い思いをさせたりすることはなくなるはずである。人間関係は円滑になり、セクハラ・パワハラの問題も起きることはない。

 思いやりと賢さを具えるには、相手の心を感じる力を養うしかない。自身が幸せな人間になるためにも、この力を養うことが必要になる。この努力ができない人間は、よほど頭が悪いか、よほど無神経か、よほど自己中心的な人間であるかの、いずれかであろう。