【街景寸考】教育関係者が自覚すべきこと

 Date:2024年08月05日11時14分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 黒柳徹子さんの著書「窓際のトットちゃん」は多くの国民に今なお愛読され続けている。昨年はこの作品が映画化され、更には続編が出版されるなど相変わらずの人気ぶりだ。

 おてんばトットちゃんは落ち着きがなく、手のつけられない問題児だったことから小学1年生のときに退学させられてしまう。ところが、新たに通うことになったトモエ学園で校長の小林先生と出会うことにより、トットちゃんは自由にのびのび成長していくというのが初編のあらすじだ。

 恥ずかしながら、わたしはこのベストセラーになった本を読んだことがない。関心が全くなかったというわけではない。というか、心のどこかにトットちゃんのことが引っかかっていた。なぜなら、わたしも学校ではトットちゃんと同じ問題児だったからだ。

 当時のわたしは自分が問題児だという自覚はあまりなかったが、たびたび放課後の教室に一人残されて担任から長々と説教を食らっていたことや、わたしの机と椅子だけが教壇の上や廊下におかれていたので、相当な問題児だったのは確かなようだ。

 このことは通信簿の所見欄からも窺えた。「情緒不安定」「授業中に落ち着きがない」「注意力に欠ける」「衝動的な行動が目立つ」「忘れ物が多い」等々の文言が常に挿入されていた。ただ、担任はこうしたマイナス評価を中和しようとしていたのか、末尾に「朗らかで明るい性格」「楽天的」という文言を付け足していた。

 わたしが学校で問題ばかり起こしていたのは、情緒不安定によるストレス反応のようなものだと後年思うことができた。この「情緒不安定」は、母と一緒に過ごすことのできない暮らしを余儀なくされていたという事情から生じていたに違いなかった。

 所見欄の末尾に書かれていた「朗らかで明るい性格」「楽天的」という文言が担任の真意から書かれていたものだとしたら、この辺の性分は誰にでも天真爛漫に振舞っていた母の影響によるものだ。トットちゃんは小林先生との出会いで劣等感を持たずに済んだが、わたしの場合は母のお茶目な明るい性格のお陰で不要な劣等感を持たずに済んだと言える。

 母は小林先生のような教育者ではなかったが、わたしが問題児として扱われていることを知りながら、わたしを怒ったり嘆いたりすることはなかった。今思えば、母はわたしと一緒に暮らしてやることができないという負い目を持っていたからかもしれない。

 自分の子ども時代を振り返って思うことがある。子どもをきちんと管理するという思いが教師にあるから、管理するのに手間取る児童を「問題児」だと決めつけてしまう傾向があるのではないか。つまり、児童を管理しやすい型に閉じ込めようとしているのが教育現場の実態だと言えなくもない。その典型が校則だ。

 こうした実態は文科省が進めようとしている「個性を伸ばす教育」にはなはだ逆行していると言うほかない。小林先生のように問題行動を「問題」とはせずに寛容に受けとめ、その子どもがのびのびと成長できるような方向に導いてやるべきだ。