【街景寸考】食わず嫌いのこと

 Date:2019年05月15日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 わたしには嫌いな食べ物がいまだに多くある。祖父母に育てられてきたのが多分に影響していたと思うが、今ではカミさんの手料理により嫌いだった食べ物が大分食べられるようになった。それでも、ナマコ、うなぎ、鳥の皮・ハツ・軟骨・キモ、牡蠣はどうしても食べることができない。ゲテモノ類は言わずもがなである。

 食わず嫌いの食べ物もある。例えばイクラだ。見るからに生臭そうであり、口の中で「プチッ」と噛んだところを想像するだけで嫌悪してしまう。イクラ好きの人たちは「そのプチッという食感がいいんですよ」と言うが、とてもわたしには理解することができない。

 スッポンもダメである。昔、上司にスッポン専門の料理屋に連れて行かれたときから嫌いになった。カウンター越しに店主がスッポンの生首を切って逆さにし、滴り落ちる血とトマトジュースを混ぜてから、「どうぞ」と言ってわたしの前に差し出したのである。わたしは男子のプライドを忘れて、「ヒェーッ」と叫んでいた。

 こんなわたしは「何て損な人生なんだ、可哀そうに」と、友人たちからあきれ顔をされてきた。確かにそう言えるかもしれないが、口に入れればもっと嫌いになる場合もあるはずだ。「知らぬが仏」ではないが、損な人生だったという後悔はない。栄養面にしても、いつも「十分足りています」と主治医から言われている。

 もっとも、食べ物以外のことでの食わず嫌いでは、随分後悔してきたことがある。その典型が読書である。わが身内の中で読書好きの者は一人としていなかったため、自然にわたしも幼少期から高校生の頃までは教科書以外の書物を手に取ったことはなかった。そのうえ勉強嫌いだったこともあり、字面ばかりで埋められた書物を寄りつき難いものとして思うようになっていた。

 ところが大学時代、面白くもない専門書から逃れるようにして、たまたま手にした漱石の小説を読んでから読書というものに目が覚めた。人間とはこんなにも面白く、愛しい生き物であるのかということを知り、俄然色々な小説を読んでみたいと思うようになった。同時に、それまで読書をあえて避け続けてきた自分を大いに悔やみ、嘆いた。

 邦画に関してもそうだった。それまでわたしは勇壮、華麗、豪快なハリウッド映画しか観てこなかったのである。ところが「寅さんの映画を観なきゃあ、日本人じゃあないよ」と友人に言われ、見方が変わることになった。山田洋次監督の映画では、社会の底辺で懸命に生きる人々の喜びや悲しみを知り、人間にとって何が大切であるかを学ぶことができた。

 わたしの場合、食べ物以外での食わず嫌いはまだまだある。遅まきながら、今からでも振り向いてこなかった色々な扉を開けていきたい。