「父の日」のできごと

 Date:2012年06月18日16時03分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
6月のある日、いつものように仕事先から帰宅したときのことである。居間に入ると新品のマッサージ機がテレビに足を向けて横たわっていた。それは岩場に横たわるトドを思わせた。カミさんと息子たちは、この「トド」のことで私の帰りを待っていたようだった。

私は、「なんだこれは」「人を年寄り扱いにしおって」と憎まれ口を放っていた。カミさんはその言葉を軽く交わして、「息子たちからお父さんに,父の日の贈り物ですよ」と笑みを含んだ表情してそう言った。「父の日」は次ぎの日曜日だということを知らなかった。カミさんも手伝って共同で購入したようだ。

この言葉を聞いて私の怒りは直ぐ萎えた。てっきり、カミさんが私に内緒で買ったものだと思ったが、そうではなかったのだ。で、それはそれで大変ありがたいことではあったが、息子たちにそう仕向けた「父の日」そのものに対する抵抗感は捨て切れなかった。

この場合の抵抗感とは、まず自分が父親として子供たちから感謝されるようなことをたいしてした覚えがないこと、それでも無遠慮に毎年「父の日」がやってくること、あとひとつは、「母の日」をダシにして、「父親にも感謝の気持ちを」という殺し文句で日本国民をたぶらかし、金儲けを企てる卑しい商業主義に対する抵抗感である。

「父の日」にふさわしい「父親」とは、男手一つで6人の子供を育てたアメリカ人の父親のような「父親」のことである。このような愛情溢れる立派な父親であれば、子供たちから感謝され、記念のプレゼントをもらう光景も様になる。従って、自分の場合とはだいぶ違う。フンドシやモモヒキくらいなら、「おうっ」と言って、照れを隠しながらでも受けることができるが、マッサージ機までの金目のものになると、どう反応してよいものやら、戸惑い、礼のセリフも出てこなかった。

「父の日」の当日、カミさんは「トド」の上に私を座らせ、スイッチを入れた。息子たちは、手術台に横たわっている病人を観るような目つきで、「効き目はどうね」と好奇の声を私にかけてくれた。