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Date:2019年07月31日08時01分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
昭和の時代、漫画に登場する空き巣やコソ泥は、どこかユーモラスに描かれることが多かった。手ぬぐいで頬かむりをし、そこから覗く丸っこい目は間が抜け、口の回りにはやした無精ひげには人懐っこさを感じたものだ。
もっとも、これはあくまで漫画の世界でのことであり、実際のところは間抜け面をした憎めそうにない泥棒がどれほどいたのかは分からない。だが時代背景を考えると、泥棒が憎めないように思えたのは漫画家だけではなかったように思う。
昭和20年、30年代前半と言えば、戦後の混乱期を経てきたとはいえ、まだまだ戦争の影響が残り、食うや食わずの人々も相当いたはずである。つまり、それまで真っ当な暮らしをしていた人々の中にも、飢えた我が子のために止むに止まれずに盗みに手を染めるということもあったのだろうと想像できる。
こういう事情を抱えた泥棒に対しては、同情の目を持つ人々も少なからずいたはずだ。漫画家たちが泥棒をユーモラスに描いていたのは、こうした世間の風潮を反映してのことだったのではないか。一歩間違えば自分も泥棒をしていたかもしれないという、共感にも似た同情心だったのかもしれない。
間抜けでユーモラスな泥棒は、古典落語にも登場している。泥棒に入られた家の主人が、泥棒の哀れな身の上話を聞かされているうちに情にほだされ、泥棒に金銭を与えるという落語がある。更には、盗みに入った家があまりに貧乏だったことから、気の毒に思った泥棒が可哀想な家族のために幾ばくかの金銭をおいて去って行くという落語もある。
昨今の漫画では、憎めそうにない間抜けな泥棒を見ることがなくなった。悪質な泥棒や居直り強盗など、犯行そのものが凶悪化してきたからだろう。「止むに止まれず」という動機からではなく、「手っ取り早く金を手にしたかった」という卑劣な動機が目立つ。
泥棒だけが凶悪化してきたわけではない。詐欺、強盗、殺人など他の犯罪も同様の傾向が見られる。犯罪が凶悪化してきたのは、過酷な競争社会に対する、あるいは非情な格差社会に対する、更には希薄化してきた人情に対する、慢性的な不平不満が背景にありそうだ。
とりわけわたしは、犯罪の凶悪化と希薄化した人情の相関性に注目してしまう。人情とは、他人への思いやりのことだ。その人情が構造的に社会の中で閉ざされてきたように思う。人間関係は機械的になり、合理性や生産性を求められ、損得による繋がりを重視するようになってきた。一方で、ほっこりするような人間関係が急速に失われてきた。
最近、巷ではほっこり感で心の穴を埋めようとする兆候が現れている。人情噺が満載される「講談」が注目されつつあるのだ。こうした動きには大歓迎だ。漫画の世界でも、再びユーモラスなコソ泥や空き巣が描かれるような、そんな寛容な社会に戻ってみたい。