【街景寸考】丁々発止でボケ防止

 Date:2019年10月16日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 以前小欄で、わたしには文章力がないということを書いたことがあった。小欄の連載が長々と370回を超えた今でも、文章が上手くなってきたとは少しも思っていない。上達しない理由は、誰よりもわたし自身がよく承知している。

 第一に、自分の持っている言葉の数があまりにも少ないこと。知っている言葉の数が少なければ、思っていることを自在に表現することができない。第二に、比喩力に劣っているということ。比喩とは「例えば何々のように」と表現することだ。この比喩力が具わっていれば、言葉の少なさを補うことができ、文章力のなさを多少はごまかすことができる。

 第三には、恥ずかしながら基本的な国語力が具わっていない。例えば助詞の正しい使い方が未だに理解できないでいる。特に「へ」と「に」や、「に」と「で」の用法の使い分けがよく分からない。更に、本来二つに分けて書くべき文章を、そのことに気づかず何とか一つの文章にしようと四苦八苦することもたびたびある。

 この程度の文章力なので、小欄の原稿を書いたときは毎回カミさんに目を通してもらうことにしている。校正や校閲をしてもらうためだ。わたしの場合、原稿を書くときはついつい近視眼的になって偏った思い込みや、誤った字句の使い方に気づかないことがあるため、カミさんに多々助けられている。

 ところが、カミさんに校正・校閲を託していることで煩わしさも多々ある。誤字脱字の指摘くらいなら「オッ、そうだったか」と素直に修正に応じているが、文章の内容や表現方法に立ち入ってきたときに、しばしばガチンコになるからだ。「それは考え方の違いだろう」と反論しても、容易には納得するカミさんではない。そこから丁々発止のやりとりが始まり、果ては人生論に至るまで長々と言い合うことも珍しくない。

 わたしは書き手というより亭主としてのプライドを守りたい一心で、乱れる心を押し隠しながら自分の意見を通そうとするが、結局はいつも言い負けている。激しい言い合いをしながらも、段々カミさんの意見の方が的を射ていることが解ってくるのである。そして、「わかった、わかった、アンタの言う通り」と、やけくそ気味に言い放って白旗を上げるのである。悔しいが、カミさんの指摘によって書き直したことを後悔したことは一度もない。

 つい先日、わたしが「邯鄲(かんたん)の夢」という故事を知らなかったことで、カミさんから散々バカにされたことがあった。「えーっ、そんなことみんな知っているわよ」と上から目線で言いやがった。「みんな」という言葉は、使い方によっては非常に暴力的な意味合いを帯びる。「そっ、そしたら俺が無知でバカだということか」と激怒して言うと、「そうよ、バカよ」と逆切れし、傷ついているわたしの心に塩を擦り込んできたのである。 

 今後もこの闘いは続いて行く。終止符が打たれることがあるとすれば、それはどちらかがボケ始めたときである。