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【街景寸考】団塊世代のわたし
Date:2019年11月06日08時01分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
団塊の世代としてわたしは生まれてきた。団塊という言葉は地質学用語のことで、「地層中にみられる丸みを帯びた塊(かたまり)状のもの」という意味だ。この団塊という言葉を引用して、戦後の第1次ベビーブームの時期(昭和22年〜24年)に生まれた大きな人口の塊のことを「団塊の世代」と呼んだ。名付け親は作家の堺屋太一氏である。
わたしが小学生の頃は同学年だけで10クラスあり、1クラスに52、3人の生徒がいた。中学校は近隣の小さな小学校の卒業生も加わるので、12クラスになった。同学年が600人以上もいたので、名前はおろか顔さえ知らない同期生のほうが多かった。
中学3年生の頃、同じクラスから就職組が男女合わせて3分の1ほどいることを知った。就職組が教室の隅に集まって色々な企業のパンフレットを広げ、クラブ活動が盛んに行われているような企業を見つけると、楽しそうに騒いでいた光景を今でも思い出す。その彼ら彼女らが「金の卵」と呼ばれ、東京、大阪などの工場や商店等の労働力として大歓迎されていることを、映画館のニュースで知った。
高校生になると、同級生たちはビートルズやグループ・サウンズに浮かれ、エレキギターを弾くグループをあちこちで見るようになった。ビートルズ世代やGS世代と呼ばれる時期だった。当時、硬派だった(野球漬けだった)わたしは、こうした音楽にうつつを抜かす連中がすこぶる軽薄に見え、あえて距離を置いていた。
東京で過ごした大学時代、学友たちの多くは大学改革や日米安保条約、ベトナム戦争を批判する学生運動に参加し、中にはゲバ棒を振りかざして過激な行動に走る者もいた。後に、これらの学生たちのことを全共闘世代と呼ぶようになった。わたしは日雇い仕事に追われる貧乏学生だったので、デモに参加することさえできなかった。
卒業後、彼らは学生運動から一転、長い髪を切って企業に就職し、まもなく企業戦士と呼ばれるようになった。数年後、「♪24時間戦えますか」というビジネスマンに向けたCМソングが日本中に流れることになる。都落ちしていたわたしは、そんな彼らを片田舎から見上げるような心境で過ごしていたことがあった。
バブル経済の崩壊後、わたしたち世代の多くは窓際族・リストラ族と言われ、邪魔者扱いにされるようになった。現在、その団塊の世代は前期高齢者となり、あと5年もすれば後期高齢者となる。メディアなどでは2025年問題と言うようになったが、まるで団塊の世代の存在が問題でもあるかのような言葉である。確かに5年が経てば国家財政は、医療、年金介護の予算で火の車になるので、更に肩身を狭くして生きていかなければならない。
「居候、三杯目にはそっと出し」の心境である。近所のオヤジにそう言ったら、「あんた三杯も食っとるんか」と言いやがった。例えのつもりだったが、通用しない相手だった。