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【街景寸考】オーケストラのこと
Date:2019年12月25日08時01分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
子どもの頃から不可解に思っていたことがあった。コンサートでのオーケストラと指揮者の関係だ。プロのオーケストラであればなおさら、指揮者なしでも演奏に差し障りがないように思えたからだ。実際、演奏中にほとんどの奏者は指揮者が振っているタクトの方に目を向けずに演奏している。
事前の練習では、指揮者の指導や指示が必要であるのは素人でも理解できる。しかし、コンサート当日は、十分練習を積み重ねてきた上でのことなので、指揮者なしでも演奏は十分可能であるはずである。だから、演奏が終わったときに指揮者一人が拍手喝さいを浴びる光景には違和感があったし、指揮者もまるで自分がコンサートの一番の立役者であるかのような顔をしていることにも違和感があった。
その違和感の中には、素人であるわたしでも燕尾服を着て指揮台に上がり、オーケストラの演奏に合わせて適当にタクトを振れば、指揮者の卵くらいには見えるはずだという思いがあった。更には、指揮者が演奏の途中で便意を催して指揮台を離れても、何事もなかったかのように最後まで演奏が行われるはずだという思いもあった。
ところが後年になって、その素晴らしい演奏の裏には才能豊かな指揮者の音楽性の下に形づくられてきたものであるということが分かってきた。そのことは理解できるようになったが、指揮者なしでも演奏ができる状況にあるにもかかわらず、なぜコンサート当日にかくも汗だくになってタクトを振るのかについては、いまだ疑問のままである。
わたしも中学3年生と高校3年生のとき、ほんの一時期合唱部にいたことがあった。その頃から、目の前で指揮をする音楽教師に疑問を持っていた。他の部員はどう思っていたのかは知らないが、わたしは指揮棒に牽引されて歌っているという意識はなかったからだ。むしろ、音楽教師が楽曲に合わせて指揮棒を振っているだけにしか思えなかった。
先日、ある高校野球部の練習を取り上げているテレビを偶然観た。野球をする際の様々な戦法を、徹底して選手たちに考えさせるというものだった。試合中は監督の指示で選手たちが動くのではなく、キャプテンを中心に選手たち自身がお互い考えながら動くという野球である。コンサートに例えれば、指揮者のいないオーケストラということになる。
わたしが所属する野球チームはどうか。監督を無視して勝手に選手が動くという点では、この野球部と似てなくもないが、選手間のまとまりというものがまるでない。その原因は、大層な球歴を持つ年寄りばかりなので、船頭多くして船山に登ろうとするところにある。一見、選手より監督の方が多くいるようなチームに見えるところに問題の根がある。
ということなので、今、我がチームはカラヤンのような優秀な指揮者(監督)の出現が喫緊の課題となっている。いつしか、その監督の下に常勝軍団となり、第9(ベートーベンの交響曲第9番)の合唱「歓喜の歌」を忘年会で歌えるようなチームになってみたい。