【街景寸考】他の保存本能のこと

 Date:2020年04月15日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 十数年前、運動会の定番として明治時代から行われてきた徒競走を、どこかの小学校が廃止したという話を聞いたことがあった。「競争をすれば誰が速いか遅いかの差がつき、足の遅い子どもが劣等感を味わうことになる」というのが主な理由のようだった。

 小学校は、子どもたちを「人間として調和のとれた育成を行い、生きる力を育むこと」を目的とした学校である。よりによってその教育の場で、浅はかな平等意識を理由に明治時代から引き継いできた徒競走を廃止したということに、情けなく思ったものだ。

 言うまでもなく、子どもが将来身を置くことになる社会は、他人との競争の場でもある。
その子どもらが、徒競走だけではなく国語、算数、図画工作等の各教科で優劣があることを互いに知り、劣っている教科は努力の必要があることを知る場でもある。

 更には、社会人として生き抜くために、心身を養っていく場である。得意、不得意が誰にでもあるのを知ることは、人間形成の弾みにはなっても、劣等感で凝り固まったままにはならないはずだ。それほど子どもはヤワではない。

 徒競走の廃止をした背景には、「自分の子どもが運動で自信を失くすのが可哀想だ」と不安がる過保護で過干渉な親たちの存在があったことは容易に想像できた。そして、教育現場の長たる校長が、この低次元な親たちの意見に押されて判断するに至ったのかと思ったら、とても残念な気持ちになった。

 その後、徒競走を廃止するというのは「悪しき平等主義だ」と憂慮する世間から多くの声もあったらしく、近年ではこうした話はほとんど聞かなくなった(実際のところは分からない)。現在は同じ程度の速さで走る子どもたちを予め編成して走らせるという小学校があるようだが、このことについては特に文句はない。

 ともあれ、他人と何の競争をすることもなく、みんなが平等で豊かに暮らしていくことができる社会はどこを探してもない。しかし、そうかと言って人間が他人を蹴落として生きて行く利己的な生き物でしかないのかと言えば、そうではない行動を見ることもできる。

 例えば、線路に落ちた人や川で溺れている人を発見するや、咄嗟に自分の命を投げ出してまで救助しようとする例は珍しくない。こうした行為を咄嗟のうちに行うところが、いかにも自己保存本能とは異なる他の保存本能があるように思えてならない。

 以前、知的障害児が入所する施設の運動会での話を聞いて、嬉しくなったことがあった。
徒競走の際に一人の子どもが転び、それに気づいた他の子どもたちが次々と走るのを止め、その子が起き上がるのを確かめてから、再び一斉に走り出したという話である。

 この話を聞いたとき、他の保存本能のことが頭に浮かんできた。人間には優しさという感情とは別に、自己犠牲を払っても他人を生かそうとする本能がどこかに具わっているらしいことを、あらためてこの施設の子どもたちから教えられた気がした。