【街景寸考】ちょっとした記憶喪失

 Date:2020年08月12日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 学生時代、日雇い仕事で地下鉄の工事現場で何度か働いたことがあった。働いた現場は青山通りの表参道付近だった。そこで日中働いた後、現場主任から引き続き夜勤を頼まれることがあった。その夜勤を引き受けた日の深夜、わたしは面白い体験をした。

 夜勤をする場合、午前0時頃から1時間ほど仮眠の時間が与えられていた。面白い体験とは、この仮眠をしたときのことだった。ベニア板で囲んだだけの仮眠室で眠っていたとき、突然わたしは誰かに身体を大きく揺さぶられ、同時に「時間ですよ、時間ですよ」という大きな声で呼び起こされたのだった。

 深い眠りから強引に覚醒させられたときに伴う、強烈な不快感によって頭の中を占領された気分だった。不機嫌に目を覚ましたわたしは、自分が誰であるのか、ここが何処なのか、なぜ自分がここにいるのかを直ぐ認識できる状態にはなかった。同時に、これらの記憶を取り戻そうとするもう一人の自分が、脳の回路を彷徨っているような状態だった。

 自分が誰であるかは直ぐに記憶を取り戻したが、未だ自分のいるところが何処で、なぜ自分はここにいるのか、無遠慮にわたしを揺さぶって大声を出していた目の前の男は誰なのかが分からなかった。わたしは幾分取り乱しながら、頭の中を振り絞るようにして記憶を取り戻そうとしていたのを覚えている。

 そして、ようやくそこが地下鉄の工事現場の仮眠室であることや、自分が地下鉄工事の夜勤の途中であること、そして眠りから覚ましてくれた男が一緒に働くことになった専門学校生だということを思い出したのだった。

 この間、数分ほど経っていたようにも、ほんの10数秒のことだったようにも思えた。この一過性の健忘症状を体験したことで、わたしは映画やテレビドラマでときどき見てきた記憶喪失という症状が現実に起こり得るものとして実感することができた。

 映画などでは主人公が事件や事故に遭遇して記憶喪失になる場合がほとんどだが、わたしの場合は深い眠りの奥底からいきなり強引に現実の世界に引き戻されたときに生じた、脳神経の一時的な錯乱が原因だったと素人ながら思う。

 わたしはこのとき、記憶を失うということの不思議さや、脳の複雑で繊細な神秘的とも思える構造に驚きを覚えていた。以降、同じような体験をすることはなかったが、近年は脳の老化が進んでいるらしく、過去の記憶を引っ張り出すのに苦労することが多くなった。こうした症状も、広い意味では記憶喪失の類なのかもしれない。

 この1、2年は大事なヘソクリの隠し場所を忘れ、泡を喰いながら知るはずもないカミさんにすがりつくように尋ねる場面が増えてきた。そのうち隠したこと自体を忘れるようになるのだろう。それはそれで、ある意味良いことなのかもしれない。