【街景寸考】誤解を恐れずに言えば

 Date:2020年08月26日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 わたしが中学生だった昭和30年代、教師の体罰は日常茶飯に行われていた。教師が生徒の顔をミミズ腫れになるほど平手で叩いても、苦痛で顔が歪むほどに足で腹を蹴っても、箒の柄で頭にたんこぶができるくらい殴っても、笹竹を鞭にして尻に青あざができるほど打っても、学校や地域で問題になることはなかった。

 教師に体罰をされても、親に告げる子どもはいなかった。教師から顔を殴られて顔を腫らして学校から帰ってきても、親が教師を非難するようなことはなかった。むしろ、父母参観などで教師と顔を合わす機会があるときは、「うちの子が悪い事をしたら思いっきり叩いてやって下さい」と頼んでいる親たちの光景を見てきた。そういう時代だった。

 教師だけではなく親も、自分の子どもを家で叩いたり蹴ったりしていた。父親のセッカンで子どもが泣き喚いていると、近所のオヤジが見兼ねて家から出てきて父親の怒りを収める光景も当時は珍しくなかった。教師や親から叩かれても、自分が悪いからだという思いがあったので、逆恨みをするような子どもはほとんどいなかった。

 当時の大人たちが子どもを叩いたり蹴ったりしたのは、間違いなく軍国主義時代の名残によるものに違いなかった。日本の軍隊の中では、上官が部下の顔を張り倒すのは半ば慣習化されていた。この悪習が、戦後も家庭や学校などに引き継がれていたのだ。この点、現在問題になっている父親の妻や子どもに対するDVとは異質なものだ。

 わたしの記憶では昭和50年前後から、教師の体罰が問題視されてきたように思う。体罰への社会の目が変化してきたからだ。この変化の背景には、平和憲法で謳われる人間の尊厳や人権が重んじられるようになってきたことがある。今では生徒に1回でも手をあげれば、校長は責められ、教育委員会もメディアの前で謝罪をさせられる時代になった。

 これに伴って教師の指導にも変化が生じてきた。指導をする際、必要以上に神経を使わざるを得なくなってきた。教師の中には気持ちが委縮し、自信を失う事例も多く見られるようになり心を病む事例も増えてきた。このような教師を軽んじる生徒も現れ、指導力の低下に繋がっているという話もある。

 教育への情熱や真剣さを持ち、日々実践している真面目な教師がほとんどであることは承知している。しかし、その一方で教師の指導力低下という傾向に加え、これまで見え辛かった教師の過重労働などの問題により、特に精神教育という面で教育現場の質も低下する傾向にあることも事実だ。

 誤解を恐れずに言えば、子どもたちが教師の体罰が怖くて指導に従っていた時代には、現在の教育現場には不可欠な捨てがたい精神や行儀がたくさんあった気がしてならない。時代を遡ることはできないにしても、せめて教師の過重労働を見直すことにより教師と子どもが昔のように相対できる時間をつくることができないものかと思う。

 喫緊の課題であることを文科省に言いたい。