【街景寸考】政治の劣化が止まらない

 Date:2020年12月02日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 民主主義というのは、民意が政治に反映されるという理想に近い政治形態だ。残念なことに今の日本の政治を見る限り、この原理が十分に生かされているとは言い難い。このことは、今回の菅政権が誕生したことからも窺うことができる。

 菅政権誕生前に各メディアが実施していた「ポスト安倍」の総理候補に関する国民向け意識調査では、常に石破氏を支持する声が30%を超えて最も多かったのに対し、菅氏の支持はわずか3%でしかなかった。その菅氏が圧倒的な票差で総理になったのである。いかに新総理の誕生が、民意に裏打ちされたものではないかが分かる。

 国民意識の調査結果と、自民党議員による投票結果の違いはどこにあるのか。大雑把に言えば、自民党議員が投じた票は、議員自身の保身や損得勘定、あるいは単に好き嫌いの感情を判断基準にする傾向があるのに対し、民意の場合は主に政治家としての資質や見識、政治理念などを判断基準にしているところに違いがあると言っていい。

 結果、菅氏が圧勝。メディアでさえこの奇怪な矛盾点を取り上げることはなかった。メディアのこのような姿勢を含めたものが日本の政治風土らしいが、明らかに民意がないがしろにされたという現実を目の前にして暗澹たる気分になった。ついでながら、おそらく自民党議員に似た判断基準で人を選ぶような風土は、政界に限ったことではなかろう。

 選挙がそうであるように、民主主義政治の中で物事を決めていく手段は多数決だ。しかし、そこに参加する者の多くが品格や教養・見識が劣っていては、本当には多数決の良さを活かすことはできない。極論すれば、民主主義の理念を理解しない輩たちが参加する多数決は、ともすると「気違いに刃物」に似た危険性を孕んでいると言えなくもない。

 多数決の原理を活かして良い国づくりを行うには、品格や見識等に長けた政治家たちが輩出されることであり、同時にこうした政治家を選ぶことができる国民が多くいることだ。

 つまり、立派な政治家の輩出と民度の高い国民とは緊密な相関関係にある。

 この相関関係は、「卵が先か、鶏が先か」というようなジレンマの生じる類のものだが、どちらかというと政治家の資質向上を優先するのが得策である。なぜなら民度を高めるには、あまりに対象が広すぎて膨大な時間と労力を要するからだ。

 その気になれば、今よりマシな政治家の輩出はそれほど難しくはない。1300年前から続いていた中国の科挙ではないが、国会議員や地方議員を希望する者を対象に資格試験を制度化すればよいのである。一般教養や国のかたちや地域づくり、国内外の政治経済等を課題にした論文などの筆記試験や、人物評価を兼ねた口述試験を実施するのだ。

 これを制度化すれば、少なくとも損得勘定や欲得、名誉欲だけで登場してくる議員はいなくなる。同時に、国会で虚偽答弁を繰り返したり、論点を逸らして説明責任を回避しようとしたり、法律を政権側に都合のよい法解釈へと強引に変えてしまうような政治屋が登場してくる余地はなくなる。

 当然ながら、票をお金で買ったり売ったりする輩たちの出る幕もなくなる。