【街景寸考】わたしの入浴法のこと

 Date:2021年01月06日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 普段からわたしは石鹸をほとんど使わない。風呂に入ったときも使わない。石鹸でひと通り身体を洗ってから湯船に入るというのが常識のようだが、わたしの場合は下半身に洗面器で2、3度お湯をかけて直ぐ湯船に入る。カミさんには内緒ごとである。ときどき湯船に浸かるまでの時間が短すぎることが感づかれて、カミさんから「身体をちゃんと洗ってから入ってよ!」と怒鳴られることがある。

 わたしの入浴法を続けよう。湯船に浸かると、まず顔を丹念に洗う。次に手のひらが届く範囲で身体全体を洗う。洗うというより「さすり回す」。洗髪は湯船に浸かった状態で洗面器に湯を汲み、6、7杯ほど頭にかけて済ましている。

 こういう入浴法なので、湯面に垢やコケや頭髪が浮き上がってくる。頭髪に混じって縮れ毛も何本か混じったりしていることもある。だから、風呂は必ずカミさんの後から入らなければならない。間違って先に入ろうものなら、浴室から「これじゃあ汚くて後から誰も入れないでしょう!」とキツイ言葉が飛んでくることになるからだ。

 わたしが風呂嫌いになり、風呂で石鹸を使わないようになったのは面倒くさがり屋の性分だったということもあるが、祖母によるところも大きかったように思う。というのは、幼少の頃まで祖母に炭鉱の共同浴場へ毎日連れて行かれ、石鹸で身体を隅から隅まで磨かれ、更に固く絞ったタオルで皮膚が痛くなるほど擦られていたからだ。これが嫌だった。

 その反動が小学2年生の頃になって一気に出た。この頃になるとわたしは女湯から解放され、近所の男の子たちと男湯へ行くようになったのである。初めて男湯に行ったときの興奮は今でも忘れない。子どもたちは湯船に飛び込み、水中メガネをつけて潜ったりし、自由にはしゃいでいるのである。わたしはこのとき男湯が一遍で好きになった。しかも、石鹸で身体を洗っている男の子は一人もいなかったのである。

 こうした経緯もあって風呂嫌いは克服できたが、石鹸を使う習慣を身につけることができないまま大人になった。石鹸の効用を理解はしていたが、身体を洗うのはお湯で十分足りると思ってきた。爾来、股間のタムシを除けば肌荒れや皮膚病を患ったことがない。

 そう言えば今回の新型コロナ報道の中で、感染病の専門家が「石鹸を使わず流水の手洗いだけでも残存するウィルスの数を100分の1にすることができる」と言っていたのを思い出した。だったら、湯洗いだけで汚れはもちろん菌も落ちるはずだ。

 それはさておき、隠居後は仕事に追われることもないせいか、一日の中で風呂に入ることが細やかな楽しみの一つになっている。何といっても、湯船に浸かっているときはもちろん、湯から出た後もしばらく豪奢な気分になれるところがいい。カミさんと言い合いをした後でも風呂に入れば直ぐ忘れ去り、ノーサイドになることができるから不思議である。

 外が明るいうちに湯船にいると、必ず頭に浮かんでくる民謡がある。小原庄助さんが歌詞に登場する「会津磐梯山」だ。「朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それで身上つぶした」の下りが気に入っている。朝寝、朝湯はわたしにとってスティホームの核心部分でもある。