【街景寸考】1クラス52名だった時代

 Date:2021年06月09日19時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 わたしが生まれたのは終戦から4年後の昭和24年である。終戦直後の混乱期を経て食糧事情も徐々に改善され、国民が一様になんとか暮らすことができるようになった頃だ。
昭和22年から昭和24年は第1次ベビーブームと言われ、この世代のことを後に「団塊の世代」と呼ぶようになった。この場合の団塊とは、他の世代に比べ人口が突出して多い世代のことを指した言葉だ。

 物心のついた頃の記憶では、産炭地の密集した炭坑長屋に住んでいたせいもあり、どこを向いても子どもだらけだった。お陰で遊び相手に困るということはなく、共同浴場でも、紙芝居の周りでも、駄菓子屋でも大勢の子どもたちで溢れていた。

 小学生のとき同学年は10クラスあり、中学生になると周辺の小学校と合流していたので12クラスになった。しかも1クラス52名前後になっていたので、教室は机と椅子で埋め尽くされ、休み時間のたびに廊下で息抜きをする生徒が多かった。

 ちなみに、現在35人学級の準備が文科省で進められているようだが、「団塊の世代」を対象に実施したとすれば1学年18クラスほどになる。そうすると学校の建設費や設備費、教員の確保などを想像しただけで、実現不可能に違いない。要するに、35人学級の推進は、たまたま今が少子化の時代だからできる話である。

 余談になるが、この35人学級の推進に疑念がないわけではない。生徒一人ひとりと向き合う時間を増やすことができるという前提で言えば、学力の向上やいじめの早期発見、不登校の抑止などの効果を得ることは可能かもしれない。しかしこの制度導入の前に教師の過剰労働や資質向上の問題こそ先に善処すべきだと、わたしには思えてならない。

 35人学級の導入によって生み出される貴重な時間を、生徒へ向けられることになればよいが、ともすると「教師の仕事はブラック?」と揶揄されているように、膨大な事務作業等の業務が更に増えることになりはしないかと心配する。

 小中学校を50人以上の学級で過ごしてきたわたしだが、授業中に騒いだりする生徒はわたしを除けば稀であり、授業が滞ることはめったになかった。執拗で陰湿ないじめのようなものもなく、登校拒否という言葉もなかった。昔の方が良かったと言うつもりはないが、複雑多岐な現代社会の中で取り組まなければならない教育の難しさを改めて思う。

 「団塊の世代」の話に戻る。ときどき戦後の高度経済成長を支えてきたのは「団塊の世代」だという話を聞くことがあったが、これは勘違いである。実際は、幼少期と少年期を戦争の最中に生き抜いてきた、いわゆる「焼け跡世代」が支えてくれたのである。わたしは今日に至るまで、この世代には頭が上がらないという思いを持ち続けてきた。

 「団塊の世代」は数こそ多かったが、わたしを含めて不毛な世代だと思ってきた。少なくともわたしの周辺では、皆「三無主義」で生き抜いてきた人間ばかりに見える。

 そう言えば、サラリーマン時代にある同僚が、「わたしは団塊の世代です」と言おうとして、「男根の世代」と言い間違えたことがあった。もちろん、周りは笑い転げた。