nasiweb
nasiwebとは
注目記事
新着記事
ライター登録申込
同カテゴリの他記事
【街景寸考】教育関係者が自覚すべきこと
2024年08月05日11時14分
【街景寸考】怒りのCМ退治
2024年07月08日11時43分
【街景寸考】「ミャクミャク」のこと
2024年06月03日12時59分
【街景寸考】「人生、まあまあでいい」
2024年05月07日14時52分
【街景寸考】81歳と77歳が再対決?
2024年03月05日13時40分
同ライターの他記事
【街景寸考】教育関係者が自覚すべきこと
2024年08月05日11時14分
【街景寸考】怒りのCМ退治
2024年07月08日11時43分
【街景寸考】「ミャクミャク」のこと
2024年06月03日12時59分
【街景寸考】「人生、まあまあでいい」
2024年05月07日14時52分
【街景寸考】81歳と77歳が再対決?
2024年03月05日13時40分
【街景寸考】「先生も色々」のこと
Date:2021年06月23日08時01分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
「先生」と呼ばれている人は色々いる。小学生の頃、先生と呼ばれているのは幼稚園や学校の先生、それに病院の先生だけだと思っていた。病院の先生は病気やケガを治してくれる偉い人だと思っていたので、先生と呼ばれていることに何の違和感もなかった。
中学生になると、2階6畳間で編み物教室を開いていた叔父の嫁が習いに来ている若い女性たちから先生と呼ばれていたり、その嫁が通う自動車学校の教官を先生と呼んでいたりするのを耳にするようになった。他にも、お花、お茶、詩吟、踊り、ピアノなどを教えている人たちも「先生」と呼ばれていることを知るようになった。
そのうち「先生」と呼ばれている中で、教え方が上手くて尊敬されている先生もいれば、教え方が下手なうえに周りから慕われていない先生がいることも知るようになった。そのことを知るようになると、次第に自分の中で「先生」と呼ばれている人たちを色眼鏡で見るようになり、自分勝手に値踏みをしてしまう癖が身につくようになった。
評価は大きく上中下の3段階に分けた。教え方が上手なうえ教え子たちから慕われ、尊敬を込めて「先生」と呼ばれている先生が上で、教え方が上手いとは言えないが友だち感覚で親しまれ、「先生」を愛称のように呼ばれている先生が中、教え方が下手クソなうえ偉そうな態度をする先生を下にしていた。
「先生」と呼ばれている人の中で、わたしが最も違和感を覚えるのは国会議員や地方議員である。議員は何かを人に教えているわけではなく、医師のように偉くもないのに、なぜ「先生」と呼ばれているのか未だに理解できない。議員の中には国民の命や暮らしを守るために真面目に働いている者もいるが、わたしが知る限りほんの一部でしかない。
ほとんどの議員は自分の名誉(実際には名誉でも何でもないが)や私欲のために蠢いている三流人ばかりだとわたしは思ってきた。1年ほど前だったか、岡山県内の市議が保健センターの入口でマスク着用を女性職員に求められて怒り、検便の入った袋を投げつけるという事件があった。わたしの頭に浮かんでくる議員は、多分にこうしたイメージがある。
議員のことを「先生」と呼ぶのは、主に事務方(公務員や秘書)や後援会の人々だ。事務方が「先生」と呼ぶのは議員の機嫌を取って仕事をしやすくするためであり、後援者の場合は何らかの利権を目当てにしている場合が多い。昔から「先生、先生と呼ばれて喜ぶバカ」と揶揄する言葉があるが、主に議員に向けられてきた言葉だったように思う。
かつて、地域のために役に立ちたいという強い志を持って市会議員になった知人がいた。その彼が一期4年を務めただけで議会をあっさり去った。「市会議員とは自分と同じように地元の発展を志して立候補した人ばかりだと思っていたが、そういう議員は一人もいなかった」というのが去って行った理由だった。
いつも国会議員や地方議員に願っていることがわたしにある。幅広い教養はもちろんだが、その人なりの哲学を持ってほしいということだ。
まずは議員のことを「先生」と呼ぶのを止めたらどうか。