【街景寸考】墓参りのこと

 Date:2021年08月25日11時47分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 8月15日、盆前から続いていた雨がようやく止んだので、母と義父母が眠っている墓苑にカミさんと二人で行ってきた。例年のように子どもたち家族と連れ立って賑やかな墓参りとしたかったが、コロナ禍でもあり断念せざるを得なかった。

 墓苑は暑い日差しにも拘わらず、案の定久しぶりの晴れ間を利用して多くの家族が訪れていた。どの家族も身内の遺骨が入る墓を念入りに掃除したり、神妙に手を合わせたりする光景が目に入ってきた。

 連れ立って来た幼子たちは、神妙な表情で手を合わせている大人たちの後ろで所在なさ気にしていたり、普段は来ることのない墓苑が珍しいらしく歓声を上げながら苑内をはしゃぎ回ったりする姿も見られた。

 隣り合わせに並ぶ母と義父母の墓石まで来たとき、すでに誰かがお参りに来たらしくホオズキが遠慮がちに供えられているのが目に入った。カミさんはそのホウズキを整え直してから、早速供え物の花やお茶などの準備にかかった。わたしも墓石を水で洗って丹念にタオルで拭き取り、その後に御霊が潤うようにと再び墓石を洗い清めた。

 準備が整ったことを確認するように墓石を見回した後、わたしたちは姿勢を低くして手を合わせた。わたしは母や義父母の生前の笑顔を思い浮かべながら、わたしたち夫婦や子どもたち家族を見守ってくれるようお願いしたのだったが、横にいるカミさんは長々と時間をかけて手を合わせていた。おそらくは、それぞれの御霊に感謝の気持ちを念入りに捧げ、浄土での様子を窺っていたのだろう。

 わたしの場合、若い頃から墓参りは身内の死者を偲ぶための機会を得る簡単な儀式のようなものだと思っていた。ましてや、お盆のたびに浄土から亡くなった人たちの御霊が現世に帰って来るという話をとても信じることはできなかった。この考えを力強く後押ししてくれたのが「千の風になって」という歌だった。

 この歌の歌い出しに「私のお墓の前で泣かないで下さい。そこに私はいません、眠ってなんかいません。」という歌詞になっていて、その私は「千の風になって吹きわたっている」というのである。この歌を初めて聞いたとき、わたしは心の中で思わず「これだ!」叫んで膝を打ったような気分になった。仏教で言う浄土という概念よりも、わたしの感覚や理屈にぴったり合う世界観だと思ったのである。

 ところが今、この「千の風になって」の世界観がわたしの中で揺れ動いている。というのは、母が亡くなったときに長男がわたしに言った「おばあちゃんが天国にいると思ったら、何か死ぬのが怖くなくなった気がする」という言葉に強く影響されてしまったのである。要するに浄土を信じてみるのも悪くないと思うようになってきた。

 「信じる者は救われる」ではないが、浄土を信じることで心の支えになるのであれば、素直に信じてみようという気になってきた。この心の変化のせいなのか、墓前や仏壇で手を合わせる心持ちが随分と変わってきた。より謙虚になり、感謝の念も深くなった。