【街景寸考】「がんばって」のこと

 Date:2022年12月07日16時38分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 何かの目標に向かって努力している人に「がんばって」と声をかけたくなるのは人情だ。

 声をかけられた人は、たとえそれが世辞だと分かっていても嬉しいものであり、その言葉が励みになったり、新たに元気が出てきたりするものだ。

 ところが、目一杯がんばっているのに成果がどうしても出ないという人や、元気を取り戻すことができないくらい体力、気力を失っている人に、とても「がんばって」とは言いづらい。言えば、更に心を傷つけてしまうのではないか、更に辛い思いをさせてしまうのではないかと思うからだ。

 それでも「励ましたい」「以前のように元気になってほしい」という気持ちをどうしても伝えたい場合がある。そんなとき、「がんばって」に代わる言葉が他にないものかと考えを巡らすが、ふさわしい言葉は簡単には浮かんでこない。逆に、足が遠のいてしまうことさえある。そんなときの自分は歯がゆくて、情けない思いを繰り返してきた。

 今も何も言えずにいる友人がいる。シニアソフトボールの同じチームメイトだ。守備もバッテングも切れ味が良く、俊敏な能力を具えたタイプである。純朴で、飲み会などではいつも傍らでおとなしく笑みを浮かべているような人柄だ。

 その彼が今夏辺りから練習や試合を休みがちになり、ここ3カ月くらいはまったく顔を見ることがなくなっていた。すると最近、誰言うとなく彼が肝臓癌を患っているらしいという話が耳に入ってきた。詳しいことは分からないが、癌であることは本当らしい。

 チームメイトの中にも何人か過去に癌を患った者はいるが、手術をしては娑婆にカムバックしてきた猛者ばかりである。今ではその経験をネタに冗談を言い合うことも珍しくない。彼とこうした冗談を言い合えるような状況なら、直ぐにでも飛んで行って言葉をかけてやりたいと思っているが、その辺の事情を確かめる勇気はない。

 45年前、末期癌の患者を病院に見舞ったことがあった。家庭教師をやっていたときの女子中学生の父親だった。末期症状にあると聞いていたので見舞いに行くのをためらっていたら、先方の家族から「是非先生の顔を見たいと言っていますので」ということだったので、「ともかく」という思いに押され、見舞いに行ったことがあった。

 その父親は、わたしの来院時間に合わせてベッドの上で身体を起して待っていた。痛々しいほどにやせ細った父親は、笑みをこしらえるのが精いっぱいという様子でわたしを見遣りながら何度も頭を下げていた。わたしは言葉を何も発することができなかった。わたしは心もとなく佇み、ただぎこちない笑みを返すことしかできなかった。

 この日の病室での光景が今も後悔の念と共に心のどこかに残っている。

 何はともあれ、このチームメイトの回復を心から願っている。