【街景寸考】73歳で再びパートに

 Date:2022年12月29日21時07分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 65歳まで現役の勤め人として働いた。失業保険受給後はハローワークで週3日だけのパートを紹介してもらい、69歳まで働いた。ミニトマトの収穫と選別作業だったが、持病の白内障が進んだことで業務に支障が生じているように感じられ、自ら退職を申し出た。年齢的にも潮時かもしれないという思いもあり、後悔はなかった。残りの人生を楽隠居で過ごすことを決め込み、好きな野球でも楽しみながら生きて行こうと自分に言い聞かせた。

 それから4年経って73歳になった。この間、楽隠居も悪くはなかったが、どこか物足りないというか、心の収まりがよくないというか、テレビを観ていても落ち着きのなさを覚えるというか、そんな感覚にときどき陥っていた。

 楽隠居に今一つ満足できなかったのは、一つにはわたしが心身共にまだまだ健康だということがある。もう一つは、「あんた、70歳までは働かにゃならんよ」という生前の母の言葉だった。命令ともつかぬこの唐突な言葉に従うためには、69歳で辞めた後の残り1年分を埋め合わせしなければならないという思いも持ち続けていた。

 「社会人」であることへの未練もあった。古希を過ぎたとはいえ、まだ「社会人」としてのレッテルを付けていたいという見栄があった。たとえ小さな事業所であっても、組織的な営みに身を置き責任の一端を担うことで、社会人の端くれぐらいにはなっていたかった。いわゆる社会参加である。社会参加は人間としての使命のようなものであり、生きがいへと繋がる行動でもあると思えた。

 そうした思いから「あと1、2年は働いてみよう」という気持ちになり、再びハローワークへ駆け込んだのだった。カミさんはこのわたしの突拍子もない行動に驚いていた。このことを聞き及んだ息子や娘たちも、オヤジに何ごとがあったのかと話題にしていたようだった。そして乱心でもなく、お金に困った挙句のような事情でもないことを理解すると、潮が退いたように元の状態に戻った。

 駆け込んだハローワークで、以前と同じように週3日ほどのパートを募集する会社を幾つか検索してもらった。するとありがたいことに、たまたま同じ町内の製材所が募集をしているのである。73歳では断られるのではないかと心配したが、電話でそのことを告げたにもかかわらず、早速その翌日に面接をしてもらうことになった。面接は社長が直に行い、その場でわたしの採用が決まったのである。

 従業員14、5名ほどの事業所だった。社長は如才なく、誰に対しても相手の気持ちをおもんばかる人柄だった。大正10年の創業ということなので、代々にわたり地域での信用と信頼を着実に築いてきた製材所であることが想像できた。こうした実績は、社長の人柄からも垣間見ることができた。

 わたしの仕事は、製材の補助作業だ。勤務は月・火・木・金の13時から17時までの4時間。作業の流れも要領も分からなかった当初は、右往左往するだけで迷惑のかけっぱなしだったが、2カ月を過ぎた今は少しずつではあるが何とか役に立っているという実感が湧いてきた。

 そう言えば、次男が中学、高校の頃の同級生が職員としてこの職場で働いていることを知った。彼は次男の結婚式にも出席してくれたという間柄だったこともあり、この職場との距離が一気に縮まったような感覚になることができた。

「ここなら何とか続けていけそうな気がする」。そんな思いである。