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【街景寸考】偽善のこと
Date:2023年01月19日10時35分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
偽善という言葉がある。「うわべをいかにも善人らしく見せかけること」という意味だ。
この言葉があるせいで、他人に喜んでもらえると思ってしたことでも、「今の自分の行いは偽善だったのだろうか」と自虐的な思いになることがある。
例えば、電車の中で座っているとき、妊婦さんなど立っているだけでも辛そうな人が傍にいたとする。この場合、すぐさま座席を立ち、辛そうな人に座ってもらおうとするのが普通だが、無神経なタイプは別として、中には座席を譲ってやりたくても直ぐに立つことができない人も少なからずいる。シャイなタイプの人に多い。
座席を譲るのが恥ずかしいと思うのは、込み合う電車の中なので衆目を集めてしまうという思いがあるからだ。加えて、善人ぶって見られるのではないかという恐れの意識もある。この場合、衆目を集めることの恥ずかしさは乗り越えることができても、善人ぶって見られるのではないかという恐れの意識に勝つことができない場合もある。
そういう意味で偽善というのは、人の思いを煩わしくさせてしまう言葉でもある。世間に偽善者はいるであろうが、その偽善者を見て、「善人ぶっている」という思いを露骨に表す人を見たことはない。否、見たことはなかった。ところが、最近そんな人間がいることを知った。ほかならぬ前東京都知事であり国際政治学者でもある舛添要一氏のことだ。
舛添氏はサッカーW杯のスタジアムでごみの片づけをしていた日本人サポーターに対し、「(彼らが)スタジアムのごみを片づけて帰るのを世界が評価しているという報道もあるが、一面的だ。身分制社会などでは分業が徹底しており、観客が掃除まですると清掃を業としている人が失業してしまう。文化や社会構成の違いからくる価値観の相違にも注意したい。日本文明だけが世界ではない」とツイートしていたのである。
舛添氏のこのツイートは、まるで日本人サポーターの行いがまるで偽善とでも言いたげな内容だ。自主的にごみの片づけをしていたサポーターたちに向かって、ここまで非難する舛添氏の神経は一体どうなっているのか。何を妬み、何に対してひねくれたら、東京都知事までやった人間がここまで卑しい精神に成り下がることができるのだろう。
とは言え、正直なところわたしは善と偽善を第三者的な視点で区別することができない。悪事を企んで善人にみせかける行為は非難すべきであり、これは詐欺である。単に自分を善人だと思ってもらいたくてボランティアに参加しても、それで誰かが実際に喜んでいるなら、ボランティアの経験のない人間が「偽善だ」と揶揄する資格はどこにもない。
ところで、偽善ではなく偽悪という言葉がある。「本当は悪い人ではないのに、うわべを悪人らしく装う」という意味だ。恋人の幸せを願ってわざと悪態をつき、自分の元から離れて行くよう仕向ける映画のシーンを観たことがあるが、これも偽悪の一例だろう。
成人の日にド派手な格好で騒いでいる若者たちを観ていて、これも偽悪だと思ったことがあった。その中の一人がマイクを向けられたとき、「親方のような立派な職人になりたい」と言ったのである。まさか舛添氏のツイッターも、偽悪だったということはないだろう。