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Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
老い先が短くなると、人は自分のこれまでの人生を回想するようになるらしい。その場合、嬉しかったときや、後悔をしたときなどの記憶を意図して回想することもあるが、触覚や嗅覚、視覚などの五感を介して記憶されている情景や心情を思わず回想することもある。五感に記憶されていると思える回想は、なぜか小学生の頃までのものが多い。
例えば、冷え切った体を湯船に沈めているときには、小学校低学年の頃の記憶が反射的に蘇ってくる。寒さにふるえて衣服を脱ぎ、お湯の熱さでチカチカする皮膚の痛さを我慢しながら湯船に浸かっていたときの情景だ。加えて、このとき湯気の匂いに刺激されて何とも不思議な感情が一気に込み上げてくる。
この不思議な感情は、至福の心のようでもあり、逆に切なくはかない負の感情のようでもあり、はたまた郷愁を感じるときのような気分にもなる。この場合の郷愁とは、故郷を懐かしむという郷土愛的なものではなく、子どもの頃の自分やそのときの情景を懐かしむような、愛おしむような感じのものだ。
五感によって記憶された情景の例は少なくない。うららかな春の風を受けているときに蘇ってくる情景もその一つだ。小学校からの帰り道に春の風を満面に受け、千金にも換えがたい心地よさを味わっていた自分と周囲に広がる田園の情景である。こうした情景は、風による皮膚感覚だけではなく、視覚や聴覚も加わって記憶されているように思う。
五感によって記憶された情景はまだある。思いつくまま列挙してみよう。
満開の桜の花々を仰ぎ見ているとき、野原のどこかで「ギィーッ、ギィーッ」と鳴くキリギリスの声を耳にしたとき、ボットン便所で鼻に突き刺すような悪臭を嗅いだとき、夏ミカンの酸っぱさに驚いて思わず顔をしかめたときなどがある。今でもこれらの場面に出くわすと反射的に過去の情景が蘇ってくる。
意図的に回想することがあるのは、忘れがたい印象のある出来事の場合が多い。
例えば、小学校に入学した日のこと、小学4年生のときに悪さが過ぎて尊敬していた先生にビンタされたときのこと、自分の書いた原稿が初めて活字になったとき、殴りかかってきた編集長をすくい投げをして裏返しにしたときのことなどだ。
もっとも、これらの回想はあくまでわたくし事のことであり、年寄りなら誰もが自分の人生を振り返りながら余生を過ごしているわけではない。青年のように常に前を向き、寸暇を惜しんで残りの人生を生きようとしている年寄りもいる。強い気概や信念を持っている年寄りなのだろう。
その点、わたしなどは根性もなく能力もなく、ましてや元来そういう性分でもない。だからと言って生涯青春を生きようとする年寄りに劣等意識を持っているわけではない。一日が平穏であることを願いながら、自分の人生を回想する生き方も悪くないと思っている。
この生き方は飼い猫から学んだものだ。「足るを知る」である。「等身大の自分に目を向け、自分の良さに気づく」という意味もある。こんな境地に近づきたいと真面目に思う。