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普通の日常こそ
Date:2012年10月04日08時58分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
東北のあの大震災で被災した人々から、マスコミ報道を通して教えてもらった言葉がある。それは、「震災前のあのなんでもない普通の日常の中に、幸せがあったんですね」という言葉である。
地震で家が壊れ、津波で家が流され、多くの人々が家族を失った。事故から1年半を過ぎた今も原発による放射能汚染を避け、ふるさとから遠く離れたところで避難生活を送る人々が万といる。被災者は、「震災前にあった以前の生活に戻れることができるなら」と、適わぬ望みを毎日繰り返し望みながら、辛い日々を過ごしている中から発せられた言葉であろう。
私たちが幸せを考えるとき、映画やテレビドラマの中で主人公たちが最後につかむ幸せのストーリーと重ねて合わせ、「自分もああいう人生を送りたい」「主人公のような幸せをつかみたい」と思う。一方で、自分の今置かれている現実の世界に戻ったとき、なんと陳腐で、退屈な人生を送っていることかと思ってしまう。「映画の主人公のように愛と感動のある人生を送りたい」と勘違いしてしまう。
そう、全くの勘違いでしかない。映画やテレビドラマは、幸せのストーリーを描くことはできても、その主人公の日常性は「完全に」省略されるのである。日常性を省略しないと映画やテレビドラマはできない。しかし、主人公がいったん画面から飛び出してしまえば、多くの時間を「変哲もない時間」として過ごさなければならなくなるのである。その現実を私たちは知るべきだ。
しかし、被災者の前述の言葉を借りるなら、小さな幸せがたくさん詰まった日常の中で、多くの人々はそのことを知らないまま、不満を言い、喧嘩をし、「人生はつまらない」と嘆いていることになる。つまり、幸せという舞台の上で、あえて不幸を演じる人々があまりにも多いということになる。こんな不幸はなかろう。
日常の中にあるこうした「小さな幸せ」の連続を、「幸せだ」と感じて生きていく、生き方が望まれる。そう生きていくことは、人に感謝し、人生に感謝し、同時代を生きる人々と共感をもって生きていくことができる生き方でもあろう。
大事な言葉を教えてもらったことに感謝。