彼岸花

 Date:2012年10月11日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 小学生のころ、東映(映画会社)は時代劇が全盛期だった。昭和30年代のころである。この影響もあって、こどもたちの遊びの中には、メンコやビー玉と並んでチャンバラごっこも主要な位置を占めていた。チャンバラごっこに参加するこどもたちは、それぞれに自分の好きな時代劇俳優の名前を付けて臨んだ。

例えば、「おれは新吾十番勝負の大川橋蔵だ」「おれは旗本退屈男の市川右太衛門」「そしたらおれは丹下左膳の大友柳太郎だ」という風に。悪役もいないと「ごっこ」にならないはずだが、「おれが進藤英太郎(忠臣蔵の吉良上野介役)になってやる」と言うような心の広いヤツはほとんどいなかった。そのころは、悪役・進藤英太郎のことを本当の悪人だと思っていた。だから中学生ころになっても、何かの現代映画でお人好しの優しいおじいちゃん役を演じるのを観たときも、「羊の皮を被ってやがるに違いない」と、警戒心を緩めない目で見ていた。

 時代劇とチャンバラごっこを想い出していたら、彼岸花のことまで連想した。彼岸花のことを、当時こどもの間では毒花と呼んでいた。その毒々しく真っ赤な毒花を悪党・進藤英太郎とその手下と見立て、田畑の縁に沿って群生する彼ら、バッタ、バッタと斬りまくっていたのを想い出したのだ。こども心にこれは痛快であり、快感だった。枝も葉も節もない花茎が地上から出ているだけだから、竹の刀を振り回せば本物の刀で斬るようにスパッと切れるのだ。切れずに茎が折れ曲がるようなことはなかった。

 今思えば、可哀想なことをしたもんだと思う。今、彼岸花は美しいと思って見ている。その美しさを楽しんでいた大人たちもたくさんいたはずである。その人たちをひどく傷つけていたのだ。毒花と呼ばれたその毒は、モグラなど田畑を荒らす小動物から守るためのものであることを知ってからは、余計後悔の念が募った。

そして、彼岸花が別名「曼珠沙華」と呼ばれることを知ったときにも、あの赤い花が他のどの花よりも美しく、高貴、高等な花に思えるようになった。彼岸のころに咲く花ということもあり、目に入れば心の中で手を合わせるまでの境地になった。そこには罪滅ぼしを超えた自分がいる。