【街景寸考】「仕事、がんばれよ」と言いたい

 Date:2012年10月25日09時14分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 勤め人の中には、稀に「仕事がおもしろい」という人がいるが、ほとんどの人は、生きるために、飯を食うために仕方なく働いているという人がほとんどであろう。私なんかもその口で、土・日の休みがあるから、なんとか働き続けることができている。

 ところが、仕事がおもしろいとまでは思っていないが、かといって仕方なく働いているというわけでもないタイプがいることも知った。このタイプは元来実直な人に多いようだ。こういう人に、「お仕事、よくがんばりますねぇ」と声をかけても、「だって仕事ですから(当然でしょう)」という具合である。仕事はがんばるのが当たり前で、そのことを感心すること自体がおかしいと言わんばかりの返事である。

 こういうタイプは、飯が食えているのも、家族を養うことができているのも、仕事のお陰だという考え方のようだ。従って、働くことに損得や打算的な卑しい行動をすることはない。自分の等身だけで誠実に生きているタイプである。
 「仕方なく働いている」という私のようなタイプは、こういうタイプに弱い。否、頭が下がる。自分の物差しが通用しないことへの屈辱感もある。

 仕事に対する考え方は、その人の能力、職種、そして職場の人間関係によっても多分に影響されるものと思われる。しかし、仕事のことを「おもしろい」「仕方なく」「当たり前」というような考え方の主張ができるのも、仕事そのものが健全な職場環境の中で行われていることを前提とした場合の話である。

 ところが、特に経済のグローバル化とか、金融資本主義とか、新自由主義経済とか言う言葉が使われ出してからは職場環境に異常性を帯びてきた。労働が過酷なものとなり、人間の尺度を超える労働を強いられるようになった。

 本来、経済活動(仕事)とは、人間を幸せにするためのものであったはずであるが、経済のために人間の幸せが犠牲にされるという労働実態が多く見られるようになってきた。派遣切り、長時間労働による過労死、使い捨て雇用、名ばかり管理職、サービス残業等々である。本末転倒である。

 仕事がこうした実態の中にある勤め人だとすれば、「おもしろい」とか、「がんばるのは当たり前」とかを言える余地はなかろう。世の中には色々な差別や偏見による人権問題がある。しかし、意外にもこうした非人間的な労働実態を人権問題として取り上げるケースは少ない。
 どのような仕事でも、「仕事、がんばれよ」と言えるようでありたい。