【街景寸考】 面白き日本人

 Date:2012年11月29日09時42分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 宗教行事としてのクリスマスが本来どのようなものであるかは知らないが、日本流のクリスマスなら知ってのとおりだ。泥酔したオヤジ連中が「メリー・クリスマス」と叫びながら盛り場を徘徊したり、若い恋人たちは、どこか静かなホテルのレストランで食事をし、プレゼントの交換をしたりする。女房と子供たちは、自宅でデコレーションケーキを食べ、寝入った子供の枕もとにプレゼントを置いて「クリスマスする」を完結する。こういう情景を典型として誰しもが頭の中に浮かんでくる。

 だが、驚くべきというか不思議というか、このように過ごしたイブの翌日がキリスト生誕の日であることを思い巡らす日本人は、ほとんどいない。イブが明ければ「クリスマスは終った」と思っている。そして、気分は正月に向けて一変していく。繁華街も掌を返したように、初春の飾り付けへと慌しく動き始める。

 日本人の多くは一応仏教徒であるが、キリストの誕生日は知っていても仏陀の誕生日を知る者はほとんどいないと言っていい。「一応」仏教徒という言い回しをしたのは、我が家もそうだが、宗教として仏教を信心しているわけではなく、ましてやその教えを心の拠りどころにしているわけでもない。かといって祖父や祖母が亡くなったときには、お坊さんにお経をいただくなどのお世話になっている。この辺のところが「一応」ということになるが、それにしても仏陀のことに疎すぎるのは、やはり変だと言える。

 調べたら、仏陀の生まれた日は旧暦4月8日ということだった。この日はお寺で「花祭り」の行事が行われているようだが、いまだ見たことがない。そして、仏陀の誕生日の前日に、オヤジ連中が盛り場を騒ぎながら徘徊するという話も聞いたことがない。

 日本人のいい加減なこうした宗教観を、ここで揶揄しようというわけではないし、眉をひそめているわけでもない。キリスト教や仏教や神道やらを、ただの国民的行事としてしか受け入れていない日本人の不思議な面白さのことを言ってみたかった。

 正月は神社に詣で、身内が亡くなったときにはお坊さんの世話になり、クリスマス・イブはキリスト抜きで「クリスマスする」という、なんでもありの自由な日本人を実に愉快に思うのである。

 加えて、宗教的な「教え」を学んでいるわけではないのに、清廉、実直さ、思いやり、道徳観など、人間の品性に必要な情緒が高いレベルで備えられた民族であるという辺りも、実に面白いところである。最近、このDNAが次第に薄まってきているような・・・。