【街景寸考】公然わいせつか文化か

 Date:2012年12月06日09時46分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 その者が路地裏から表通りに現れたところで、鉢合わせになった。一瞬それがヒトというより何かの大きな物体と遭遇したような感覚だった。そのヒトが力士だということは直ぐに分ったが、町中でまわしを着けただけの格好だったので、こちらの方が戸惑った。足も裸足のままである。

 でかい尻を丸出しにし、女性に負けないくらいのオッパイを露わにしているが、平気の体である。力士だから公然わいせつ罪で捕まることはない。九州場所の最中ということもある。序の口か序二段あたりの力士らしく、短い髪の毛を頭の上で窮屈そうに結んでいる。これが、もし髪を七三に分けた細身のサラリーマン風の者であれば、不審人物と見られ、職務質問もありうる。それでは、同じ素っ裸同然で歩いても職務質問されない力士の「特権」とは何なのだろうか。

 これと似た光景を思い出した。私が少年時代の産炭地・田川郡川崎町のことである。1日の労働を終えて坑内から出てくる鉱夫の姿はフンドシ1枚だった。石炭の煤に覆われて顔も身体も真っ黒になった炭鉱夫たちは、そのまま炭鉱の共同浴場まで直行し、煤と汗を落としてさっぱりするのが習慣になっていた。

 たまたま金沢から来ていた叔母さんがこの光景を見ていて、独り言のようにこう呟いた。「○○子(私の母のこと)は、男衆が町中をフンドシだけで歩き廻るようなところで暮らしとるのかいねぇ」と。城下町育ちの叔母さんには、これが下品で野蛮な光景に見え、そういう環境の中で自分の妹が生活していることを嘆かわしく思ったようだった。

 しかし、この鉱夫のフンドシ姿も、力士だから許される「特権」と同質のものである。この「特権」を「文化」という言葉に置き換えてみると分りやすい。相撲が「文化」として形成されているから、裸同然が許される力士と同じように、鉱夫のフンドシ1枚も産炭地での労働環境が産み出した「文化」だと言える。文化とは、人間がそこで長年にわたって形創ってきた慣習や振舞いとすれば、そういうことだろう。

 叔母さんのこの呟きは感情的なものであり、一種のカルチャーショックによるヒステリーのようなものだったに違いない。「偏見」とは、こうした感情が先で修正されないまま、固定化してしまうことを言うのではないか。

 実は、なんとか「文化」になってほしいと密かに思っていることがある。それは、博多山笠も女衆の山笠ができて、男衆と同じように「締め込み」をして山を担ぐというものである。・・・やはりそれはないか。