【街景寸考】美人に期待したいこと

 Date:2013年01月16日09時06分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 天神のきらめき通りだったか何通りだったか、そこを通りかかったときのことである。明るい紺色のツーピースを着た美人が目に留まった。目に留まったのは、たくさんの人々が行き交う中で彼女だけが立ち止まっていたからだ。アップした髪が賢さを引き立たせているように見えた。彼女は手に持った紙袋から何かを取り出そうとしていた。美人だということもあったが、何でもないその仕草に女性らしい趣が感じられた。

 袋から出てきたのは菓子パンだった。まさかとは思ったが、そのまさかが当たった。彼女はそのパンを何のためらいもなく大口を開けてかぶりついた。私は血圧が下がっていくような眩暈を覚えた。彼女はそんな私とは関係なく口をぱくつかせた。最初の一口でパンを詰め込み過ぎたのか、一瞬苦しそうに白目をむいていた。それを見て私の方も目をむきたくなった。

 私たちの若い頃は、このような下品な振舞いをする若い女性はいなかった。男衆の中にも行儀の悪い輩はいたが、往来で物を食べるという光景はあまりなかったように思う。電車の中で堂々と化粧する光景も同じ類である。

 「今の若い連中は・・・」とおじさんたちは言いたいのだが、「行儀って何ですか」「誰にも迷惑をかけていないのに、どこが悪いのですか」と若者から問われれば、明快に説得する自信はない。説得する自信はないが、これまでの道徳観や美学がこういう下品な風潮に圧倒されてしまってよいはずがないという思いが理屈抜きにある。特に美人に対してはそうした思いが強いのは事実である。

 昭和30年代、天下の美人と言われた山本富士子という女優がいた。私はまだ小さな子どもだったが、彼女が特別の美人だという意味を理解することができた。それに「山本富士子が屁なんかするはずがない」という歪んだ信仰まであった。こうした信仰は、美人は作法や仕草がより美しくなければならないという願望からくるものであり、本能に近い欲求かも知れなかった。実際、美人たちもその自覚を持ち、世間の期待に応えようと品や仕草の中に美しさを加えようと努めてきた。そうすることで内面の美しさも自然に磨くことができた。そうした美人は人前で大口を開けてパンを喰うようなことは絶対にしない。

 今の風潮が続けば、バーチャル的に乾燥した美人ばかりになり、内面に潤いを持った「心美人」がいなくなってしまうのではないかと心配する。