【街景寸考】どう生きていけばよいのか

 Date:2013年05月22日09時10分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 若い頃なら誰もそうだが、自分の人生について真剣に考えることがしばしばあった。この先自分はどう生きて行ったらいいのかというようなことである。しかし、色々考えてみても、詰まるところ、就職先をどうするかというような現実的な問題に行き着き、そこで悩むことしかできなかった。そのうえ一旦就職してしまったら、もう後戻りできなくなるような不安な気持ちになり、更にその職種のことまで考えると、いよいよ考えるのが面倒くさくなった。

 結局、「何とかなるさ」といういい加減なところで思考停止していた。しかし、「自分はどう生きていけばよいのか」という、人生の根本的な問いかけについてはいい加減にはできないという思いがあった。俗世的な生き方ではなく、世界平和や人類愛を目指すというような高邁な人生が送れないものかと考えたりした。あるいは「晴耕雨読」のような生き方をしていくにはどうしたらいいのかというようなことを考えたりした。

 はたまた全く正反対のような考え方もあった。人は仕事場へ行き、腹が減れば飯を食い、排泄物が溜まればトイレに行き、夜は自宅に帰り、眠たくなれば床に入る。つまり俯瞰的に人間社会を見れば、そうした行動をただ毎日単純に同じことを繰り返しているだけではないのかというようなことである。いくら自分が哲学的な高邁な人生を生きたいと考えても、傍から見れば所詮どの人間も単純な行動を繰り返しているだけではないかと考えた。東京タワーの展望台から下界を見下ろしたとき、特にそう感じたことがある。

 そう考えたとき、自分の人生のことを「たかが人生」と思うことができた。人生を軽く見ることにしたわけではない。「自分はどう生きたらいいのか」という重い課題を背負いながら生きて行かなくてもいいんだと思えるようになっただけである。哲学的な思考が自分の生き方を支えるのではなく、幸せに生きていくかどうかは気分の問題なんだと思うことができるようになった。

 強いて人生のよりどころについて言うなら、「まっとうに生きてさえすれば、ひょっとして自分にもそのうち何か良いことがあるかも知れない」というフーテンの寅さんの言葉を借りたい。これこそが自分にとっては最良の人生観だと思っている。