【街景寸考】新妻の悲劇

 Date:2013年06月26日09時55分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 命がけで仕事をするような先輩がいた。Nさんのことだ。命がけといっても、傍からそう見えるだけで当の本人はといえば、仕事を苦にしている様子には見えなかった。むしろその充実感を楽しんでいるように見えた。仕事に関係する資料を調べ、機関紙の原稿を書き、講演会向けの画像を制作するなどが主な仕事だった。毎晩10時か11時ころまで職場にいたようである。仕事の途中で銭湯へ行き、夕食代わりにカップラーメンを食べながら仕事を続け、電車がなくなると職場のソファで寝ることもたびたびあった。

 Nさんとは、以前の職場でも一緒に働いたことがあった。小さな雑誌社だった。その雑誌社で広告取りの営業が彼の担当だった。ある日の朝、ミーティングのときに事件は起きた。次号の編集内容のことで編集長とNさんが対立したのだ。お互い一歩も譲ろうとはしなかった。両者の声がだんだんと大きくなり、そして編集長の声が怒号に変わった次の瞬間だった。編集長が平手で彼の頬を殴った。その次の展開を予測する間もなくNさんは目の前にあったテーブルを両手で大きくひっくり返した。テーブルの上にあった資料やコーヒーの入ったカップが音を立てて飛び散った。

 普段は落ち着きのある律儀なNさんしか知らなかったので、私はNさんの方に驚いた。そのときの顔の表情は、編集長の数倍も凄みがあった。私はこれ以上の事態を避けようと、編集長を大外刈りで倒し、そのまま床にねじ伏せた。咄嗟に出た行動だった。Nさんはこの状況を見て冷静さを取戻したのか、動きが止まった。私に押さえ込まれている編集長も下から私の腕を軽く叩いた。「もういい」という合図だった。後日、「あのとき君が編集長を押さえてくれてなかったら、どうしていたか分らない」とNさんは真顔で礼を言った。

 Nさんの猛者ぶりにまつわる話はほかにもある。Nさんの新婚旅行のことである。Nさんは国際線の飛行機の中で新妻を隣にして原稿を書き、ホテルに着いても原稿を書き、ホテルのFAXからその原稿を職場へ送信していたということだった。ネタはまだある。Nさんから誰にも内緒にしていてくれと言われていた話である。新婚旅行から帰ってきた翌日、新妻から見送られながら職場へ行ったところまでは問題なかったが、仕事を終えて帰った先が何と実家だったというのだ。つい新居と新妻のことを忘れていたとのことだった。彼は私にそのことを耳元で打ち明けた。そして、「黙っといてくれよ」と念を押していた。

こういうタイプの人間を、これまでほかに見たことがない。その是非については触れないでおくが、ネタとしては極め付けである。