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Date:2013年09月04日10時14分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
思えば、これまで信念をもって生きてきたためしがない。信念とは「かたく信じて動かない心」だと広辞苑に書いてあった。私の場合、何を始めても三日と続かない性質なので、信念の人になれる資質は生まれつきないようだ。
小6のころ、「プロ野球の選手になりたい」という憧れがあった。その気持ちは決して半端ではなかったように思う。来る日も来る日も野球ばかりして遊んでいた。辺りが暗くなってボールがあまり見えなくなるまで遊んでいた。しかし、中学生になって部活に入ったのは野球部ではなく卓球部だった。出来心のようなものだったが、すでにそのときはプロ野球選手への思いは消えかかっていたようにも思う。
大学生のときもそうだった。親の希望もあって法曹界を目指そうとしたことがあったが、条文解釈の難解さや法律の本からは生身の人間が見えてこないことに嫌気が差し、早々に見切りをつけた。見切りをつけたことに後悔はなかったが、他に志したかったものがないことを知り、腑抜けになった。卒業した後も腑抜けた状態が続いていた。それ以来、なりゆきにまかせた人生を生きてきた。
そうした人生を生きてきたせいか、信念をもって生きている人の前に出ると反射的に縮こまってきた。「本物」の人の前では、自分が偽物だということがバレタときのような恥しさを覚えるのだ。そうした人の前でどんなに高邁な人生論をぶっても、欺瞞的な生き方を見透かされているような思いになり、卑屈になった。
世の中には、ただ1点を見据えて、それに向かって懸命に努力している人や、弱者に手を差しのべ、市民運動や文筆活動を通して強者に立ち向かっている人たちがいる。そういう人たちに何度か会う機会があった。意外にも彼らは物腰低く、もの静かで穏やかな表情をしているという点で共通していた。
引け目を感じながら生きてきた人生だったが、少しずつ開きなおることができるようにもなってきた。世の中、信念をもたないと生きていけない人間と、信念をもって生きていくのが苦手な人間がいるのだと。今後は、「ほめられもせず、苦にもされず、そういう者」になれるよう、これを不言のまま生きていこうと思っている。