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【街景寸考】「ネコ持ってこい」
Date:2013年10月16日10時36分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
育ったのは炭鉱の長屋だが、アルバイトで田植えや稲刈りなどの農作業を経験する機会があった。中高生のころである。田植えのときは、足首にヒルが何匹も吸い付いていたことに気付いて悲鳴を上げ、稲刈りでは野鼠やモグラと遭遇して驚いたりした。この程度の農業体験だったが、田んぼの土の中にある甘美な感触と温もりを体感することができた。
そういえば、このときの面白い想い出がある。農家の主人から「兄ちゃん、納屋からネコを持ってきてくれ」と頼まれたのだ。稲刈りの最中になぜネコが必要になるのか理解できなかったが、ともかく納屋に向かってみた。しかし、納屋のどこを探してもネコは見当たらなかった。
戻ってくるなり、「ネコはいませんでした」と伝えたら、彼は一瞬怪訝そうな顔をしたが、直ぐに白い歯を見せて笑った。彼が持ってくるように頼んだネコとは、手押しの一輪車のことだった。彼は私にそう説明して、もう一度歯を見せた。未だに、なぜ一輪車のことをネコと呼んでいるのかわからないままでいる。
話は変わる。20代の頃、大分県野津町で自給自足の生活をしているSさん一家のところへ数日間の泊り込みで取材に行ったことがあった。農作業を手伝いながらの取材ということだったが不安はなかった。中高時代の農業体験のお蔭である。
Sさんの家は簡単に造られた平屋の建物で、いかにも質素な趣だった。家にある家電は、土間にあった冷蔵庫と洗濯機、部屋の中にはラジオくらいしか見当たらなかった。翌日から私は早速山羊の乳を搾り、畦道の草を刈り、野菜の種を畑に撒いたりして手伝った。
Sさん一家は、お茶の代わりに山羊の乳を飲み、米、麦、野菜、味噌などを自給していた。「貨幣経済からできるだけ離れて生活する」ことがSさんたちの生き方のようだった。奥さんも二人の小さな子どもを育てながら、自給自足を協働していた。田んぼの畦道に腰を降ろしたSさんは言った。「田んぼを見ていますとね、毎日表情が違うのですよね」と。夕方の静かな風が吹き、稲が揺れていた。
人間の生きていることの意味を、Sさんは自給自足の生活を通して知ろうとしているような気がした。そう言えば農本主義という思想があった。この思想とSさんの生き方がどこかで繋がっているかも知れない。そう思った。