【街景寸考】 ロマンスグレーはどこへ

 Date:2013年11月13日10時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
「トイレに行くからこの席を取っといてって、私、あんたに言ったでしょう」
「・ ・ ・ ・ 」
「なぜ取っといてくれなかったんだ」

 朝の電車の中で突然語気を荒げた中年男の声が聞こえてきた。声は、その男のそばで俯いたまま座っている若い女性に向けられていた。

 ことの経緯はこうだ。いったん座席を確保したこの男が、車両内のトイレに行くことになった。そのため隣に座っていたその女性に、座席を確保しておくように頼んでいたが、トイレから戻るとすでに別の人に座られていたということらしかった。

 その座席には中年おやじが座っていた。大勢が乗り込んでくる勢いの中で、「ここは座っている人がいます。今トイレに行っているところです」と言って立ちはだかるのは、若い女性でなくても難しそうだ。あっという間の出来事だったに違いない。

 周りにいた乗客は、小さくなっているこの女性に同情を寄せているようだった。かといって誰もその男をいさめる立場にはない。このあと、この場面がどう展開するのかをただ見守るしかなかった。

 事情を知らずに座ってしまった中年おやじが、事情を察して席を立つのか。それとも知らんふりを決め込むのか。あるいは、わめいた男のそばにいるのが耐えられずに女性がその場を立ち去るのか。その中年男の方が、不機嫌な面をしたまま消え失せるということもありうる。

 が、結局3人とも動かなかった。というより乗客で込み合った中では、動きようがなかったという状況もあった。中年男は、ようやく女性への責めをあきらめ、普段の表情に戻り新聞に目を通しているように見えた。被害の女性も、俯いていた顔がいつのまにか車窓の方に向いていた。

 それだけの話である。ただ、この場面、あとから座った中年おやじが、事情を察した時点で席をあけてやるべきであり、あるいはトイレから戻ってきた中年男が、その座席に誰かが座っているのを見たら、直ぐさま潔く諦めるべきだ、というのが万民の気持ちである。

 それにしても、この中年の男ども、煮ても焼いても食えない輩だ。自己中心的で、身勝手な振る舞いである。ロマンスグレーの紳士たちが少なくなった。嘆かわしい光景だった。