【街景寸考】募金活動のこと

 Date:2013年12月11日09時43分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 早朝、駅前で中高年の男女数人が横一列になって声を上げている様子が見えた。赤い羽根の募金活動だった。私は愛想よくポケットから百円硬貨を取り出し、募金箱に入れた。

 募金をすることに少し迷いがあり、募金したことに少し後悔があった。横一列の圧力に屈した募金はしたくないという思いが頭の中をよぎったにもかかわらず、募金をしてしまったからだ。

 人は、見られる側の立場にいるとき、視線の圧力を大なり小なり感じるものだ。特に、自分を見ている数が多ければ多いほどその圧力は大きい。そんな圧力に負けて行った募金だったので、いい気分ではなかった。

 募金をしてくれない冷ややかな人と思われるより、募金をしてくれる優しい人だと思われたい、という気持ちもあった。そういう偽善的な自分にも嫌気がさしていた。

 募金に協力をした人が気分を害することがないようにするには、一対一の募金をやるべきだと思う。一対一だったら、募金をするかしないかは自由な意志で決めることができる。自由意志であれば、募金した人はその自分の行為に満足し、何かの理由や考え方があって募金をしなかった人も、たいして傷つくことはない。

 同じ駅でときどき宗教の布教活動をしている女性がいる。大抵一人での活動だ。小声で行き交う人たちにあいさつをしながら伝道用の冊子を配布しようとしている。あの場合だったら、彼女が差し出した冊子を受け取ろうが拒否しようが、気分を害することはない。一対一の関係だからだ。ときには、その熱心さに負けて耳を傾けてみようという気になることもある。

 ところで、赤い羽根運動って何の募金活動だったか。集めたお金でどんな人たちが救済されるのかをよく知らない。その活動の主体が少しも見えてこないのである。「何でもよいから金を集めればいい」という活動だったとしたら、いつまでたっても国民に理解してもらえない。

 慈善の心を掴もうとするなら、そこらの具体が必要になる。せめて「どういう人たちが、どういう風に救済されるのか、されてきたのか」の情報を懇切に提供しながらの活動であるべきだ。

 緑の羽根募金も同じことが言える。こちらの方は今でも続いているのかどうかも知らない。赤い羽根に関するこの論調をカミさんに言ってみたら、「知らないのはアンタだけよ」と冷たく一蹴されてしまった。わずか百円のことで少し力み過ぎたとは思ったが、空回りしただけだった。