【街景寸考】演歌を唄った子ども時代

 Date:2014年01月22日10時10分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 小学2年生のころ、当時人気歌手だった「船方さんよ」の三波春夫や「哀愁列車」の三橋美智也、それに少し毛色の違う「有楽町で逢いましょう」のフランク永井の歌なんかを唄っていた。登下校中のときなど一人でいるときは大抵唄っていた。

 力を入れるところはこぶしを効かせ、声を伸ばすところはビブラートを使った。今にして思えば、年増好みの演歌をあそこまで凝って唄う子どもはそういなかったのではないか。「NHKのど自慢」で大人たちの歌を聴きながら、ここはもっと歯切れよくとか、そこはもっと強弱をつけなければならないと、頭の中で「素人衆」に注文を付けていた。

 演歌ばかりなぜ唄うようになったのかは分からない。家族の誰かが唄っていたという環境でもなかった。影響を受けたとすればラジオくらいしかない。演歌がラジオから流れてきたら直に覚えることができた。2,3回聞けばだいたい全体のメロディーを頭の中に入れることができた。歌詞は当時の月刊雑誌の付録にあった歌集で覚えた。

 中学生になっても演歌ばかりを唄っていた。音楽の教科書に載っている歌は授業のときしか唄わなかった。かといって音楽の授業は嫌いではなかった。ただ歌の試験だけは苦手だった。音楽教師がピアノを伴奏する横で一人ずつ唄わなければならなかったのがダメだった。順番を待っている間に眩暈がし、頭痛がした。順番がきたときには脳みそが破裂しそうな気分になった。

 歌が下手だったわけではない。唄えば声量あふれ、清潔感ある歌声が喉の奥から流れてきた。その歌声と悪ガキで通っていた私のイメージとの不釣合を晒されるのが恐怖となった。思春期のときにしかない感情だった。

 この歌の試験の後、合唱部にスカウトされた。強制だった。筑豊地区の音楽祭で独唱をやらされ、「コロラドの月」を唄わされた。高校のときも部活の野球を終えた3年生の夏、同じように歌の試験の後にスカウトされ、文化祭でミュージカル「白雪姫」の王子役をやらされた。これも強制だった。その一年前、放課後体育館の片隅で唄っていた井上(陽水)さんがプロ歌手になり、私のその後はただのカラオケ好きのサラリーマンになっていた。

 今は老化による声帯疲労でそのころの声の半分も出ない。カラオケにも行けなくなった。