【街景寸考】「新」を感じなくなった正月

 Date:2014年01月08日10時02分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 年が明けて、また新しい年が来た。新しい年がきたというのに特別の感慨もなければ新鮮な気分もない。このところ毎年そうなる。そうした三が日を過ごすのが憂鬱である。年始の挨拶がぎこちないのも、このことと関係がありそうだ。

 凛とした気分になれないのは、かつてあった様々な「正月」の形や風景がなくなってきたからだ。子供の頃の正月は、枕元には真新しい下着や衣服が揃えられ、外出時の防寒着も新しく買ったものを着せられた。家の者たちが台所に祀ってある神棚の前に揃い、かしわ手を打った。

 雑煮やおせち料理も三が日だけの特別のものだった。おせち料理の由来は知らないが、普段はあまり食べさせてもらえない贅沢な料理だった。お年玉という大口の小遣いも正月だけの慣習だった。このように、正月三が日は非日常が演出され、「新」や「特別」となる形や風景をあちこちに見ることができた。正月の清しい空気はそうした形や風景によって醸し出されていたように思う。

 昨今はどうか。おせち料理は昔ほどには作られなくなった。その気になればいつでもおいしいものを食べることができるからだ。神棚を祀る家もほとんどない。正月が来るからといって下着や衣服を新しく買うこともない。単なる冬季の大型連休といった感じになった。

 まだ続いているのはお年玉だけか。当時のお年玉の相場は百円だった。百円は白髭面の板垣退助が描かれたお札である。大人たちから貰ったお年玉は三が日で千円くらいになった。一日の小遣いが十円だったころなので、千円は大金だった。そのお金で駄菓子屋に走り、普段買わない凧や駒を買い、おもちゃ屋にも行き、二百円、三百円もするような玩具を買っていた。

 新年を迎えたとき、やはり新年らしい「新」や「特別」の形や風景がほしいという願望があることを言いたかった。こころ新たな気分になって、「新年、明けましておめでとうございます」を心から友人や同僚たちに言ってみたい。

 ないものねだりである。