【街景寸考】「よかろうもん」人生

 Date:2014年02月19日10時11分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 博多弁に「よかろうもん」という言い方がある。色々な場面でこの「よかろうもん」を多用してきた。正確な意味までは考えたことはなかったが、「適当なところでよい」とか「多少脱線するくらいのことは構わない」とかいうようなことである。

 根性がなく、何事にもいい加減な生き方しかできない当方のような人間にとっては、大変ありがたい言葉である。仕事上で困り、何らかの難しい判断を迫られたときなどは、この「よかろうもん」を羅針盤にし、多くの障害を潜り抜けてきた。この言葉がなかったら、もっと余計に悩み、苦しんできたに違いない。

 自身の人生を「よかろうもん」人生だと名付け、密かに人生訓にまでしていた。こうした人生観で生きていると、良し悪しは別として他人の考え方や行動に対しても寛容になることができた。約束の時間に遅れたり、仕事上で勘違いやミスがあったりしても不信や失望を持つようなことはなかった。このためか、後輩からは慕われてきたようだが、上役や先輩からは、「だから後輩を育てることができなかった」と厳しい評価を受けてきた。「悪し」の部分である。

 「よかろうもん」人生を絶対視してきたわけではない。マイナスの部分は承知していた。そのことに気付いたのは、自分が感心する人や尊敬する人の共通項を知ってからである。しかし、そのことに気付いたころには、すでに何の取り柄もない、のっぺらぼうのような人間になっていた。

 尊敬する人たちの共通項とは、自分がやろうとしていることへのこだわりであり、執着心である。どの道を歩むにしても一流と呼ばれる人には例外なく、これらが備わっていることを知った。

 自分の生きる道にこだわり、磨きをかけてきた人は、人より秀でるようになる。秀でることで人生がより豊かになり、充実した人生を送ることができる。誰からも尊敬の念で見られるようにもなる。こだわりの人生にこそ収穫が大きいのは確かなようだ。

 これまで「真面目はいかん」と、子どもたちや後輩に諭してきた。物事にこだわることで自分を窮屈にし、視野を狭くしてしまうのではないかと心配したからだ。人の生き方、考え方は無限にあるということや、人間の人生は宇宙と同じで、何一つ解らないことばかりだということを伝えたかったからだ。

 少々乱暴な「よかろうもん」人生であるが、子どもたちや後輩たちも、その欠点を見抜き、利の部分だけを聞いてくれていたに違いない。