【街景寸考】車社会で失ったもの

 Date:2014年03月12日10時30分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 以前、仕事の関係で長崎市に出張したときのことである。仕事が予定より早目に終わったので、住宅地の方を気ままに歩いたことがあった。傾斜地に張り付いて建ち並ぶ住宅地は、小さな道が幾つも網の目になって広がっていた。

 その網目の中を適当に曲がったり登ったりして歩いていると、時折そこで暮らす人たちとすれ違うことがあった。その際、どの人も必ず会釈をしてくれた。はっきりした口調で言う人、遠慮気味に言う人、無言のままこうべだけを下げる人、と様々だったが、どの顔にも笑みを浮かべていただいた。どの笑みも力みがなく自然だったので、とても爽やかな気分になった。人一人しか通れない道幅のところでは、手前にある少し広めのところで立ち止まってくれた人もいた。

 この種の優しさは、狭い道々に囲まれた生活の中で培われてきた特有の文化ではないかと考えたりした。思えば、日常会話に「道」という言葉が使われなくなった。車社会になってからは「道」は「道路」と呼ばれるようになり、「道」は死語同然の扱いになっている。

 「道路」は車を走らせる役割があるが、たったそれだけしかない。「道」は人が歩くためのものだが、それだけではない。狭くても子どもたちの遊び場となり、地域の人たちのための井戸端会議の場となり、野良猫たちが生きて行くための生存の場でもあった。言ってみれば多目的スペースであり、「道路」には決してない人間が人間らしく振る舞えるスペースであり、そこに風情があった。昔からどこにでも見られた路地裏の風景がその典型である。

 「道路」はそうした温もりの部分をことごとく奪い、壊して行った。経済優先の社会に向かっているのだから仕方がないという論理だ。しかし、長崎市は中堅都市の規模にありながら唯一「道」がまだ多く残っている都市でもある。地勢的に車が通れる「道路」を造れないという事情が幸いしたと言える。子どもたちが狭い道でのびのびと遊び、奥さんたちがどこでも自由に立ち話ができる。野良猫たちもゆったりとおだやかな表情に見える。

 それにしても、車社会になってからは人間が残しておくべき多くの大切なものを、思いっきり捨ててきた社会だと言えまいか。その点に関して言えば、人間は愚か者であると言わなければならない。