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【街景寸考】花小金井の大家さん
Date:2014年03月26日09時54分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
学生時代、住いを6度替えた。西武新宿線花小金井駅の近くで借りた貸間は5度目の住まいだった。平屋建てだったが、建坪が広く、母屋と同じ屋根の下に四つの貸間が収まっていた。私は表通りに面した四畳半一間の部屋に転がり込んだ。
それまでは中央線阿佐ヶ谷駅近くの牛乳屋の2階に住み込んでいたが、突然そこを追い出されることになった。店側に劣悪な労働環境を改善するよう要求したら、結局私一人がクビにされたのだった。クビの理由は配達員たちをそそのかしたということのようだった。
暗澹たる思いで転がり込んだ貸間だったが、ここの大家さんがよかった。実に気さくで人間味溢れた人だった。根っからの下町気質かと思えば、ときどき研ぎ澄まされた深みのある言葉を発する人でもあった。それを発するときは必ず酒で酔っぱらっているときだった。
この貸間に来た日の夜、隣室の明かりが灯っていたので、てっきり他の間借人がいるのだと思っていたら、その灯りの主が大家さんであるということが後日わかった。何かの作業場に使っているらしかったが、何の作業かは分からなかった。作業は毎晩夜遅くまで行われていた。
ある夜、誰かが部屋のドアを叩く音がした。その音は鈍く、テンポ悪く数回ほど繰り返された。ドアを開けたら、両手にどんぶりを持った大家さんが突っ立っていた。目の前に大家さんの緩んだ笑顔があった。緩んだ笑顔は酒のせいだった。
「ちょっといいかなあ。ラーメン作ってきたんだ。一緒に食おうと思って・ ・ ・ 」
鈍いノックの音は、ひたいを使ってドアを叩いていたものだった。ここへ越して何日も経っていないのに、もう何年も可愛がってもらっているような親しみをそのとき覚えた。
このとき大家さんの手が石膏のようなもので白く覆われていたので、そのことを聞くと、「粘土あそびを少しばっかりしていてね ・ ・ ・」と答えただけだった。インテリアデザイナーとして日銭を稼いでいるということだったので、それと関係があるのかもしれないと思った。
卒業して九州に帰ってから数年後、大家さんから武蔵野美術大学で教鞭を執ることになったという便りが届いたことがあった。毎晩夜遅くまで作業をしていたのは、彫刻家を目指して創作活動をしていたのだということを初めて知ることができた。
ある夜、家のそばで大家さんと並んで立小便をしたことがあった。清明風が二人の顔を優しく撫で、静かに通り過ぎていった。今、そのときと同じ夜風の中で、すでに亡くなられた大家さんのことをふと思い出した。