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【街景寸考】さ・ん・ぽ
Date:2014年04月16日10時01分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
散歩をするときは、大抵時間的にも精神的にも余裕があるときだ。そのどちらが欠けても散歩に出かけることはない。平穏な気分でいるとき、その平穏さをもっと楽しみたいと思ったときなどである。
子どもたちがまだ幼かったころ、よく子どもたちを連れて散歩に行った。このときの散歩は、気持ちに余裕があったというわけではない。むしろ、子どもたちと散歩をすることで気持ちの余裕を取り戻すことができた散歩だった。子どもたちのお蔭で仕事の疲れがいっぺんに吹き飛んだ。自分勝手なありがたい散歩だった。
長男が七歳、次男が五歳、三男が三歳のときに長女が生まれた。その長女を散歩に加えることになったのは、少し言葉が喋れるようになってからだ。仕事で帰りが遅くなっても、晩飯を食べる前に子どもたち四人を連れて夜の散歩に出かけていた。
散歩は、自宅の前の狭い住宅街を通って十分ほどのところにある神社までのコースだった。夜道の中を子どもたちはワイワイとはしゃぎながら歩き、走った。ところどころにある街灯の明かりに照らし出された子どもたちの顔は嬉々としていた。
長男は一団を先導するように先を走り、次男がすぐさまそれを追いかけた。三男は置いてきぼりを食ったような不満顔で二人の後を追いかけた。その兄貴たちの様子を長女は、私の腕の上から面白い物でも見るように見渡していた。家に一人残ったカミさんも、短い時間ではあったが、ほっと一息できたようだった。散歩の効用はそこにもあった。
毎夜歩き回るこの奇異な親子の一団を、微笑ましく見ていたご近所の方々もいれば、通り過ぎるまで眉をひそめていたご近所もいたかもしれない。指揮官はそのことを承知していたが、構わず夜の散歩を続けた。
以前、カミさんから良いことを聞いた。「子どもたちが小さかったころに、十分過ぎるくらいの孝行をしてもらった」と。なるほどと、この言葉には感心した。子どもたちを喜ばそうとして始めた散歩でもあったが、親孝行をしてもらっていたというわけである。
この散歩は子どもたちにとって、「サ・ン・ポ」という言葉の響きと織りなして、忘れられない原風景となっているのではないか。