【街景寸考】気まずい場面

 Date:2014年05月07日09時50分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 「よう、久しぶり。元気だった」「いやあ、本当に久しぶり。元気そうだね」

 先日、大型商業施設で久しぶりに知人と会ったときのことである。お互いその偶然の出会いを喜び、その喜びを盛り上げた。ひとしきり話した後、「それじゃあ、また」「ああ、元気で」と声をかけ合い、別れた。

 そこまではいい気分だったが、別の商品コーナーでまた彼とばったり出会ってしまったのである。今度は先刻とはまるで雰囲気が違っていた。露骨に言うなら、「やべぇ、またこいつと会っちゃったよ」である。まるで会いたくもないヤツに会ったときのような心境に近かった。出会いの場面が続いた場合、改めて掛け合う言葉は見つからない。見つからないから表情はこわばり、その場を早く逃げ出したいという心境にさえなる。最初の出会いで盛り上がりが大きいほど気まずさも大きくなる。

 これと似た場面がある。駅のホームで親戚や友人などを見送るときのことだ。発車するまでの時間を過ごすのが実に気まずい。列車が動くまで顔をじっと見ているわけにもいかず、かといって他所を向いたままでいるのも不自然過ぎて変である。列車が動き出すまで会話でもと思うが、分厚い窓ガラスで遮られてできない。

 発車のベルが止んで電車が動き始めたとき、気まずい気分が消えて、「ホッ」とする瞬間である。そして「元気でね」「お世話になりました」と、お互い本来の笑顔を作り、手を振る仕草に心を込めることができる。

 ところがである。遅れてきた客のせいか何かで、せっかく動き出した列車が停車して一時動かなることがある。この場合は特に気まずい。別れ際の温かい表情は冷め、威勢よく振っていた手を下ろし、困惑した顔で固まってしまうしかないのだ。このときの心境を露骨に言うなら、「どうでもよいから早くってしまえ」である。

 「再会の場面」も「別れの場面」も一度切りの完結した演出でなければならないという思いがある。だから、現実の世界で前出のように同じ舞台が繰り返されることになると、台本のない舞台となるため気まずさに耐えられなくなってしまうのではないか。

 こうした心境は、他人に理解してもらえることなのかどうか、勝手に一人相撲を取っていただけだったのかどうか、自信がない。