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【街景寸考】文字で絵を描く気分
Date:2014年08月06日10時37分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
小さいころから絵を描くのが下手クソだった。今でも孫たちから漫画のキャラクターを描くようせがまれたときは、弱みを不意に突かれたときのようにうろたえる。小・中学校時代、授業で描かされていた絵はいつも途中で放り出していた。絵具を塗れば塗るほど変てこな絵になり、万遍なく塗れば恐ろしい絵になってしまうのは自分でも分かっていたからだ。
途中で放り出していたのは絵だけではなかった。模型飛行機の組み立てや漫画雑誌の付録にあった紙工作なんかも同様だった。要するに、普通に手先を使って何かを作るという能力がありそうにもなかった。不器用な手先で生まれてきたのだ。
ところが後年、最後までやり遂げる能力が欠如していたのは、手先の不器用さだけではなく、忍耐力のなさも大いに関係していたことに気付いた。そう思ったのは、たまたま何かの雑誌に載っていた山下清氏のちぎり絵を見たときだ。
同氏の芸術的な才能に感心させられたのは言うまでもないが、それ以上に感心させられたのは忍耐力だった。ちぎっては貼るという超精密な作業を気が遠くなるほど繰り返したちぎり絵を見て、常人にはとても不可能な忍耐力だと思い知らされた。同時に、おそらくはどの芸術分野においても、常人を超えた忍耐力が備わっていなければ芸術家になることはできないのだとも思った。
自分の話に戻れば、今にして思うと小・中学校で描かされる絵ぐらいだったら、手先の不器用さや忍耐力が平均を下回っていても、普通の真面目ささえあれば下手クソながらも最後まで描けたはずだった。なぜなら真面目さは能力の問題ではなく、気持ちの問題だからである。当時、いかに自分がだらしのない性格だったかを思う。
書店で画集をめくっていてユトリロの風景画などに出会うと、心惹かれることがある。最近、こうした絵を見ていて思うことがあった。絵筆で絵を描くことが無理なら、文字で「絵」を描くように表現をすればいいのではないかと。それこそ、ちぎり絵のように文字を一字一字ちりばめて形や色を作っていくという感じである。作文も下手クソではあるが、この方法なら器用な手先は不要である。普通の真面目な気持ちさえあれば、自分なりの「絵」が書けそうだ。ボケ防止のためには最適な趣味になる。巻き返したい気持ちもある。