【四字熟語の処世術】明鏡止水

 Date:2014年09月01日10時28分 
 Category:文学・語学 
 SubCategory:四字熟語の処世術 
 Area:指定なし 
 Writer:遠道重任
明鏡止水(めいきょうしすい)



今年は9月8日が中秋の月を愛でる日である。旧暦の8月15日にあたる。子供の頃から海辺で育ったせいか、満月の日に海岸で海を眺めるのが今も好きだ。満月の日に穏やかな天候に恵まれることはそう多くはないが、絶好の月見日和ともなれば、必ず海岸に出向いてぼんやりと波間に揺れる月影に心をよせる。その美しさにカメラのシャッターを切ることも少なくはないが、その感動をそのまま焼き付けてくれるような写真が撮れたことは一度もない。

波が穏やかな時は対岸から一直線にのびる月の明かりが波へ投影するのは実に美しい。少しでも波立てばその光景はすぐに消えてしまう。波静かにしてこそ堪能できるその美しさは、一年にそう何度も見ることができるものではない。

話は変わるが月は実に不思議である。月はひとつなのに、あちこちの水たまりすべてに映る。当たり前と言えばそうなのだろうが、私にはなぜか不思議に思える。天上空高くに在しますひと柱の神様とその分霊が私たち一人一人に宿るとする昔ながらの日本の宗教観はここから生まれたのかも知れない。

明鏡止水、辞典をひも解けば「邪念がなく、澄み切って落ち着いた心の形容。「明鏡」は一点の曇りもない鏡のこと。「止水」は止まって、静かにたたえている水のこと。」とある。

神様の分霊は今風に言えば「良心」と言い換えていいかもしれない。その良心という本来まばゆいばかりの光も自身の邪念という雲で覆い隠されてしまってはその輝きを失ってしまう。加えて心は事ごとに惹かれ、かき回され波打って定まらないため、天上から降り注ぐ良心の光も鏡のように映し出すことができないでいる。

波打つ心を鎮めて鏡のごとくにし、月明かりのごとく暗闇を照らす良心という光をその心の鏡に映し出すことができれば、きっと人は正しき道を歩むことができるだろうに…。

ともあれ、今年は心しずかに中秋の名月を心の鏡に投じたいものである。