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【街景寸考】身勝手な死生観
Date:2015年01月05日08時38分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
正月早々に話すことではないが、最近自分の死についてよく考えるようになった。還暦を過ぎたころからそうなった。死を考えるとは言っても、死に対する素朴な疑問が浮かんできては、その答えが分からず堂々巡りをしているだけである。哲学や宗教などの高等な識見があれば、それなりの死生観をもって余生を暮らしていけるのだろうが、私には無理なようだ。
素朴な疑問というのは、「死んだら魂はどうなるのか。天国はあるのか。天国に行けば、先に逝った祖父母や叔父叔母たちと会えるのか」というようなことだ。死ぬ直前のことも考える。「苦しいのか。怖いのか。果たして笑顔を作って死ぬことができるのか。幽体離脱ができて枕元にいる家族の表情が天井から見ることができるのか」といったものである。
臨死体験があれば、堂々巡りするこれらの疑問から少しは脱皮できるのではないかと思ったりする。宇宙から地球を初めて眺めた宇宙飛行士が、新しい境地で人間の存在を考えるようになったという話を聞いたことがあるが、あれと似た境地になるのではなかと。
臨死体験ではなかったが、川で溺れて死に損なったことがある。10歳のころだ。川で泳いでいたら深みにはまり、必死に水面から顔を出そうともがいたが身体が段々沈んでいくのが分かった。意識が朦朧となり、苦しさもどこかに消えていくような記憶がある。たまたま近くで魚釣りをしていた大人に助けられて死なずにすんだが、このとき思ったのは、溺れて死ぬのは意外と簡単で楽なのだということだ。死への恐怖もなく、死んでいくことの抵抗感も薄れていく感覚だった。
死に損なったが、この経験で死に対する新しい境地が芽生えたかというと、何もなかった。ただ、天国説はあり得ないと考えてきた。天国が本当にあるなら、輪廻組を除いても天国は先祖だらけで足の踏み場もないはずだ。美しく広がる花園で自分の身内と懐かしく再会できるという悠長な場面設定は考えにくい。仮に天国があったとしても、身内との懐かしい再会気分は長く続くものではなく、二度と死ねない制約の中で延々と生前繰り返してきたような日常を続けなければならなくなる。そう思うと地獄に行きたい気分になりそうだ。
今はカミさんより先に逝くことのみを死生観にしている。そのため最近は自分よりカミさんの健康に留意しなければならないと思うようになった。身勝手な死生観である。